限りのないものは恐ろしい。
地球が丸くて、宇宙の中にポンッと浮いていて、四方八方に空があって、それが限りなく続いていると初めて知った時は、その想像し切れない大きさになんとなく恐怖を感じた。

 


限りのないものは、ないんでないかと思う。生きているものはいつか死に、、生きているものによって作られたものもいずれ朽ち、万物に限りがあって、勿論空にも果てがあると私はいつも思っている。
何千億、何千兆光年、もっと先に行けばちゃんと壁があるけれど、今の人間の力では辿り着けなくて、だから宇宙は無限に続いていると思われている。のではないか、といつも思う。

 


なんだって終わりが見えたほうがよい。不死身にもなりたくない。1000年先を生きてはみたいけれど、せいぜい欲張って100歳で死にたい。

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先日、誕生日を迎えた。

 

誕生日はよい。一年の中で一番、皆が私を思い出してくれる日だと思う。

家族や親しい友人からは勿論のこと、普段音沙汰の無い人たちから連絡が来るのはとても嬉しい。海の向こうの友達や、元アルバイト先の人たちや、誕生日を告げた覚えのない会社の人たちがおめでとうと言ってくれるのも実に嬉しい。国一個分の愛ももらった。

 

 

歳を取ることは素晴らしい。何よりも生きている証になる。

「歳を取る」と言うけれど、一体どこから歳を取っているのか。私は地球や宇宙そのものから取っていると思う。だから地球は一年に70億歳を取り、いずれ滅亡する。

 

 

 

会社の上司が一言、「誕生日とは両親に感謝する日でもあります。」というメッセージをくれた。素敵。背中を押されるように両親へ感謝の意を伝えたら、母は涙ぐみながら私にありがとうと言ってくれた。生きていることに感謝してもらえるのをこれほど嬉しく、有難く感じたことはない。

 


「子は親を選べない」という考え方と、「自ら望んで産まれてきた」という考えがあって、どちらにも一理あると思うし、どちらも偏っていると思うし、私はどちらとも思わないけれど、結局は自分自身を好いて認めることができたり、自分の生き方に満足できたりすれば、選んだ選べない望んだ望んでないどうこう、そんなものはどうでもよくなるんだろう。
私は今の自分の人生をなかなか気に入っていて、とにかく命在ることに感謝している。生きているだけで丸儲けだと思うことがある。そう思えることもまた、有難い。

 

 


この地球に生み落とされたからには自分の目で良い人生を見つけていかねばいけないということ、今日の学び

時は金なり

 

 

と言うけれど、

 

時間はお金ほどに大切ですよ、という意味であって、お金が重要度の基準にあって、結局は時間よりもお金のほうが(大なり小なり)大切だという意味も強い。

 

お金が無ければ命は危ういし
命が無ければお金は要らぬし
鶏が先か卵が先か、のような差で

 

でもなぁ
寿命一日×所持金一億円と
寿命百年×所持金一円とだったら、
後者のほうがよい気がするなぁ
洞窟で何十年も暮らしていたという人もいるもんなぁ


この諺にはそこまで深い意味は無いのかも知れないけれど、時間って本当〜に大切。

 


最近、人の時間を取るということに、多少なりとも敏感になるようになった。
誰かが私に関わっている限り、
その誰かは私に時間を奪われている
快くも不快にも、私に時間を割いてくれている

 

初めてそのことに気が付いた時、
なんだか取り返しのつかないことをこれまで沢山してきてしまったのでは、と恐ろしく感じた


誰かが私に時間を割いてくれている限りは、せめてその一秒一分と相応する対価で返さねばいけないと、思うことは思っているけれど、それが出来なかった時は非常に申し訳なくなる。

 

 

時間というのは要するに命そのもので、

つまりの私に命を分け与えてくれる人たちに、とても感謝している

 

 

死刑は怖い。
人を殺した人を、殺す


意味があるようで、ないようにも感じる。
統率できているようで、乱しているような気もする。

 

中学生か高校生の頃、家の近くの鉄塔を自転車で周りながら、死刑について考えていた。

 

 

三年ほど前に、伊坂幸太郎の、「オーデュボンの祈り」という本を読んだ。
そこに出てくる島に、サクラという人がいた。警察のような裁判官のような役割なんだけれど、その裁き方が凄かった。


結局彼も人を殺すのだけど、
私は彼のような人がいたらよいなと、しばしば思う。

 

 

 

 

 

透明になりたい時がある。


主に人混みにいる時がそうで、人混みが凄く嫌いで、知らない人とぶつかったり、ぶつかってもごめんの一言を言い合えなかったり、ダラダラ歩いている人の後ろをノロノロとついて行かねばいけなかったり、雑音にしか聞こえない人の声に埋もれたりして、もう嫌だ!もう!嫌だ!と思った時、時折、私は自分を透明人間だと思うことにしている。

 

私は透明だ。私は誰からも見えていない。だから私はここにはいない。だからこのもどかしさも鬱陶しさも嫌悪感も、全部存在しない。

 

と思うと、幾ばくか楽になる。人との接触も無かったことになり、牛歩よりも一層遅く歩くことができ、雑音は私の体をすり抜けていく。

 

 

透明になると自由になる。
誰も気にしない。誰の目も気にしない。私はここにいなくて、誰からも認識されず、それはちょっぴり寂しいことだけれど、空を飛べるんではないかと思うくらい、全身に覆い被さっていた良くないものがドスンドスンと落ちていく。

 

 

 

今日も少しばかり、透明人間になった。

 

 

人それぞれ、感情の深さは違う。

 

例えば電車に乗り遅れた時、
悲しいと思う人もいるし、何でもっと早く家を出なかったのかと悔やむ人もいるし、少しくらい待ってくれてもいいだろうと駅員に対して苛立つ人もいるだろうし、諦めて家に帰る人や、自分のヘマに笑えてくる人や、逆にワクワクして特急に乗ってみたりする人や、はたまた何も感じない人だって、いると思う。

 

例えば、泣き虫な人や短気な人は未熟な人間だと、例えば、呑気な人や陽気な人は浅はかな人間だと、言う人もいるけれど、そんなことはない。

 

人それぞれ、感情の深さが違うだけなのである。と、私は思うのである。

 

 

感情の造りは全くわからないけれど、例えば、昔私が遊んだことのある、ゴリラが障害物を避けながらツルを登っていくあのゲームのように、脳の中には感情の線が何本もぶら下がっていて、楽しいことがあれば「楽」の感情線を、苛立つことがあれば「怒」の線を、嬉しいことがあれば「喜」の線を、感情の粒がスルスルと降りて行く。それぞれの線の長さは違っていて、長さの短いものから粒は地面に落ちて行く。粒が地面に落ちた時、私は「楽しい」と思ったり「むかつく」と思ったり「嬉しい」と思ったりするのかもしれない、と思うのである。

 


私は悲しいという感情線が短い。すぐに悲しくなる。大概何に対しても悲しいと思う。時折、怒りの感情線が悲しみの線に絡み付いて、きっと他の人なら怒るだろうところで、泣く。

 

今日接客をしたあのおじさんは、きっと怒りの感情線が短い。自分の思い通りにいかないことで私に怒りをぶつけてきて、その時は軽蔑してしまったけれど、単に線が短いだけだった。

 

会社にいるあの上司は、いつもボーッとしている。たぶん、そもそも粒が少ないのだと思う。

 

 

感情そのものには、良いも悪いもない。怒ってもよいし泣いてもよいし笑ってもよいし何も感じなくてもよいし、とにかくそれ自体は自由だと思う。

 

けれど、それをどう表に出すかで、良いも悪いも決まってしまう。感情の粒はいくら地面に落ちてもよいが、地に落ちたその粒を、落ちた勢いで天に跳ね返すのか、土に染み込ませてしまうのか、そこはしっかりせねばいけないな、と、結果、自分を戒めるに至った。

 

 

 

ボールズ

 

 

ボールズという大好きなバンドが昨日、解散した。

 

三年前、CDショップで見掛けたジャケットが可愛いらしくて、その場で視聴をしたあの瞬間、頭のメロディーに一瞬で脳の神経を、ボーカル(やーまんさん)の声に一瞬で内臓を、持って行かれるような、感覚だった。今だにハッキリと、恐らくマサイ族かどこかの一族が1キロ先の物をハッキリと認識できるくらいハッキリと、その時のトキメキを覚えている。思い返す今でさえドキドキしている。

 

ライブにもよく行った。
ボールズは大阪のバンドだけれど、よく東京にも来てくれた。地元を大切にしつつも関東まで来てくれるところがまた、好きだった。

 

初めてライブを観た時のトキメキも忘れていない。あの時も一瞬だった。一瞬で全身の血液が勢いよく循環し出すような、感覚だった。CDでの「爽やか」、とにかく爽やかなイメージとは一変、ライブでは真夏のような熱気と、ラムネのようにパチパチ弾ける音楽と、ポップコーンのようにポンポン飛び跳ねるメンバーと、そしてその周りに、目に見えるかのようにキラキラピカピカしたものが浮かんでいて、私はひたすらワクワクした。

 

野外でのライブもまた、素晴らしかった。
朝の澄んだ空気と自然に囲まれた広いステージがこれほど似合うバンドなんぞあるか!と思うほど、爽やかで、心地よく、素敵であったのを、思い出す度にちょっぴり切なくなる。

 


そしてワンマンライブほど最高なものはなかった。好きなバンドひとつだけのライブなんて、最高に決まっている。バイキングと同じ、好きなものしかお皿には載らない(、というイメージ)。
お客さんも皆、何かしらそのバンドに興味や好意があって来ている人たちなわけだから、もうこれは鬼に金棒、最高が2倍にも3倍にもなる。

 


そんな素敵なバンドが、昨日を以って解散した。空気が一斉に入り込もうとすると圧力か何かで全く入れなくなるような法則があったようななかったような気がするけれど、解散と知った時は、色んな思いが一気に集まってつっかえ、ひとつも外に出てこなかった。その後しっとり考えると、寂しくて、悲しいとか嫌だとか解散しないでとか、思うことは沢山あるけれど、総じて寂しいと思った。、


それでも、好きな人の好きな曲を好きになるような感覚で(違うかもしれないけれど)、好きな人たちの決めたことならばそれが一番よくて、正しいのだと思う。
各々がもう前を向いて進み始めているから、尚よいのである。

 

何より、ボールズが大好きで、それだけでよかった。好きが一番大きいのなら、何であってもよい。

 


最後の(とは思いたくないけれど)ライブは、一年振りに観たライブは、いつも観ていたものと何ら変わらない、限りなくよい意味で特別感のない、どこまでも楽しい一線のライブだった。やっぱりキラキラしていて、真っ直ぐで、あぁスポットライトのよく似合うバンドだなぁとふと思って、「寂しい」よりも「楽しい」がずっと強くて、楽しくて、ワクワクして、最後までそんなライブをしてくれるボールズを、やはり素敵だなぁと思った。ホームの大阪でライブを観られたことを、とても幸せに思っている。

 

 

ライブが終わってからはずっと、脈が不穏で、心臓が時折ドンッと跳ねて、落ち着かない。結局は寂しいのである。実感が湧かない。そらぁ、死んでしまうわけではないからボールズがいないという感覚は掴みにくい。
一晩寝て起きたら、ちっと冷静になったけれど、メンバーのコメントを見たらまた動機・息切れ・気つけが起こったり起こらなかったりしてきて苦しい。

 

 

 

私は、本当に、ボールズが大好きだった。
見えぬ先のことを誓うのはあまり好ましくないけれど、それでも私はこれからもボールズが大好きで、これからもボールズの音楽を聴いて、いつかまたライブをしてくれることを密かに楽しみにしながら、待つのだと、これまたマサイ族のあれこれのように、ハッキリとわかっている。

 

 

力強くて、いつだって私たちをステージの上へ引き上げてくれるように歌うやーまんさん、セクシーに格好良くベースを弾く阪口さん、絶対にMCを外さない、控え目ながらも存在感のある池ちゃん、大胆に愉快にフロアを盛り上げてくれるジャスミンさん、そんな4人を後ろから見守りながらドラムを叩くぐっさん、そして活動休止中のボールズを動かしてくれ、唯一のライブではずっと笑顔で楽しそうに演奏してくれた森重さん、皆さんにとても感謝しています。

 

 

ボールズは、本当に、素敵なバンドで、ボールズの音楽は、本当に、楽しくてワクワクする音楽で、私はずっと至福でした。

 

 


これまで沢山、沢山ありがとうございました。どうか皆さん、これからもお元気で。