世の中の人々が皆、自分だと思うことがある。

 

家族や友人、毎日見掛ける人やテレビの中の人たち、地球の裏側にいる人たちや一度も会う事のない人たちでさえ皆、実は私自身なのだと、思うことがある。

 

人生には数え切れない程の選択肢があり、私たちは死ぬまでに何十億もの中から一握りの道を選んでいく。私が米粒以下の大きさでこの地球に出現した瞬間から、選択は始まり、選んだほうにも選ばなかったほうにも、どんどん下へと選択肢が続いていく。ねずみ算のように、二倍にも三倍にも何十倍にも、続いていく。

 

私が選ばなかった道を、実はもう一人の私が進んでいて、その先に続いている道をまた、もう一人、二人、三人と、別の私が歩き、生きている。今すれ違った全くの他人は、実はあの時あの道を選んだ先にいた私で、そこに座っている見知らぬ人も、私が選びそびれた先にいる私で、あの人も、この人も、私で、、、、と、思うのである。

 

だから稀に、本当に稀に、清々しくなる。生きている限り人と離れることはないし、生きている上での悩みは大概が人間関係から派生しているという。その人間が全て私なのだから、相手に一喜一憂する必要はない。この私が出来なかったことを、別の私が叶えていて、分かり合えない相手も、私で、全部自分なのだから、深く悩む必要はない。と、ごくごく稀に、思う。

 


そう考えると、何を選んでもよい気がする。

 

 

限りのないものは恐ろしい。
地球が丸くて、宇宙の中にポンッと浮いていて、四方八方に空があって、それが限りなく続いていると初めて知った時は、その想像し切れない大きさになんとなく恐怖を感じた。

 


限りのないものは、ないんでないかと思う。生きているものはいつか死に、、生きているものによって作られたものもいずれ朽ち、万物に限りがあって、勿論空にも果てがあると私はいつも思っている。
何千億、何千兆光年、もっと先に行けばちゃんと壁があるけれど、今の人間の力では辿り着けなくて、だから宇宙は無限に続いていると思われている。のではないか、といつも思う。

 


なんだって終わりが見えたほうがよい。不死身にもなりたくない。1000年先を生きてはみたいけれど、せいぜい欲張って100歳で死にたい。

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先日、誕生日を迎えた。

 

誕生日はよい。一年の中で一番、皆が私を思い出してくれる日だと思う。

家族や親しい友人からは勿論のこと、普段音沙汰の無い人たちから連絡が来るのはとても嬉しい。海の向こうの友達や、元アルバイト先の人たちや、誕生日を告げた覚えのない会社の人たちがおめでとうと言ってくれるのも実に嬉しい。国一個分の愛ももらった。

 

 

歳を取ることは素晴らしい。何よりも生きている証になる。

「歳を取る」と言うけれど、一体どこから歳を取っているのか。私は地球や宇宙そのものから取っていると思う。だから地球は一年に70億歳を取り、いずれ滅亡する。

 

 

 

会社の上司が一言、「誕生日とは両親に感謝する日でもあります。」というメッセージをくれた。素敵。背中を押されるように両親へ感謝の意を伝えたら、母は涙ぐみながら私にありがとうと言ってくれた。生きていることに感謝してもらえるのをこれほど嬉しく、有難く感じたことはない。

 


「子は親を選べない」という考え方と、「自ら望んで産まれてきた」という考えがあって、どちらにも一理あると思うし、どちらも偏っていると思うし、私はどちらとも思わないけれど、結局は自分自身を好いて認めることができたり、自分の生き方に満足できたりすれば、選んだ選べない望んだ望んでないどうこう、そんなものはどうでもよくなるんだろう。
私は今の自分の人生をなかなか気に入っていて、とにかく命在ることに感謝している。生きているだけで丸儲けだと思うことがある。そう思えることもまた、有難い。

 

 


この地球に生み落とされたからには自分の目で良い人生を見つけていかねばいけないということ、今日の学び

時は金なり

 

 

と言うけれど、

 

時間はお金ほどに大切ですよ、という意味であって、お金が重要度の基準にあって、結局は時間よりもお金のほうが(大なり小なり)大切だという意味も強い。

 

お金が無ければ命は危ういし
命が無ければお金は要らぬし
鶏が先か卵が先か、のような差で

 

でもなぁ
寿命一日×所持金一億円と
寿命百年×所持金一円とだったら、
後者のほうがよい気がするなぁ
洞窟で何十年も暮らしていたという人もいるもんなぁ


この諺にはそこまで深い意味は無いのかも知れないけれど、時間って本当〜に大切。

 


最近、人の時間を取るということに、多少なりとも敏感になるようになった。
誰かが私に関わっている限り、
その誰かは私に時間を奪われている
快くも不快にも、私に時間を割いてくれている

 

初めてそのことに気が付いた時、
なんだか取り返しのつかないことをこれまで沢山してきてしまったのでは、と恐ろしく感じた


誰かが私に時間を割いてくれている限りは、せめてその一秒一分と相応する対価で返さねばいけないと、思うことは思っているけれど、それが出来なかった時は非常に申し訳なくなる。

 

 

時間というのは要するに命そのもので、

つまりの私に命を分け与えてくれる人たちに、とても感謝している

 

 

死刑は怖い。
人を殺した人を、殺す


意味があるようで、ないようにも感じる。
統率できているようで、乱しているような気もする。

 

中学生か高校生の頃、家の近くの鉄塔を自転車で周りながら、死刑について考えていた。

 

 

三年ほど前に、伊坂幸太郎の、「オーデュボンの祈り」という本を読んだ。
そこに出てくる島に、サクラという人がいた。警察のような裁判官のような役割なんだけれど、その裁き方が凄かった。


結局彼も人を殺すのだけど、
私は彼のような人がいたらよいなと、しばしば思う。

 

 

 

 

 

透明になりたい時がある。


主に人混みにいる時がそうで、人混みが凄く嫌いで、知らない人とぶつかったり、ぶつかってもごめんの一言を言い合えなかったり、ダラダラ歩いている人の後ろをノロノロとついて行かねばいけなかったり、雑音にしか聞こえない人の声に埋もれたりして、もう嫌だ!もう!嫌だ!と思った時、時折、私は自分を透明人間だと思うことにしている。

 

私は透明だ。私は誰からも見えていない。だから私はここにはいない。だからこのもどかしさも鬱陶しさも嫌悪感も、全部存在しない。

 

と思うと、幾ばくか楽になる。人との接触も無かったことになり、牛歩よりも一層遅く歩くことができ、雑音は私の体をすり抜けていく。

 

 

透明になると自由になる。
誰も気にしない。誰の目も気にしない。私はここにいなくて、誰からも認識されず、それはちょっぴり寂しいことだけれど、空を飛べるんではないかと思うくらい、全身に覆い被さっていた良くないものがドスンドスンと落ちていく。

 

 

 

今日も少しばかり、透明人間になった。

 

 

人それぞれ、感情の深さは違う。

 

例えば電車に乗り遅れた時、
悲しいと思う人もいるし、何でもっと早く家を出なかったのかと悔やむ人もいるし、少しくらい待ってくれてもいいだろうと駅員に対して苛立つ人もいるだろうし、諦めて家に帰る人や、自分のヘマに笑えてくる人や、逆にワクワクして特急に乗ってみたりする人や、はたまた何も感じない人だって、いると思う。

 

例えば、泣き虫な人や短気な人は未熟な人間だと、例えば、呑気な人や陽気な人は浅はかな人間だと、言う人もいるけれど、そんなことはない。

 

人それぞれ、感情の深さが違うだけなのである。と、私は思うのである。

 

 

感情の造りは全くわからないけれど、例えば、昔私が遊んだことのある、ゴリラが障害物を避けながらツルを登っていくあのゲームのように、脳の中には感情の線が何本もぶら下がっていて、楽しいことがあれば「楽」の感情線を、苛立つことがあれば「怒」の線を、嬉しいことがあれば「喜」の線を、感情の粒がスルスルと降りて行く。それぞれの線の長さは違っていて、長さの短いものから粒は地面に落ちて行く。粒が地面に落ちた時、私は「楽しい」と思ったり「むかつく」と思ったり「嬉しい」と思ったりするのかもしれない、と思うのである。

 


私は悲しいという感情線が短い。すぐに悲しくなる。大概何に対しても悲しいと思う。時折、怒りの感情線が悲しみの線に絡み付いて、きっと他の人なら怒るだろうところで、泣く。

 

今日接客をしたあのおじさんは、きっと怒りの感情線が短い。自分の思い通りにいかないことで私に怒りをぶつけてきて、その時は軽蔑してしまったけれど、単に線が短いだけだった。

 

会社にいるあの上司は、いつもボーッとしている。たぶん、そもそも粒が少ないのだと思う。

 

 

感情そのものには、良いも悪いもない。怒ってもよいし泣いてもよいし笑ってもよいし何も感じなくてもよいし、とにかくそれ自体は自由だと思う。

 

けれど、それをどう表に出すかで、良いも悪いも決まってしまう。感情の粒はいくら地面に落ちてもよいが、地に落ちたその粒を、落ちた勢いで天に跳ね返すのか、土に染み込ませてしまうのか、そこはしっかりせねばいけないな、と、結果、自分を戒めるに至った。