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煙草

 

 

煙草って美味しくない。楽しくもない。そして身体中に害がある。最悪だ。

 

これまでに二度だけ、本気で煙草を始めようと思ったことがある。
友人の5割前後が喫煙者で、何度か分け与えてもらったこともあるけど、いざ自分でじっくり吸ってみようと思うと全く良くない。


一年程前に初めて自分用に煙草を買って吸った時、全身に害が巡り巡るのがよくわかって、本当に死ぬかと思った。ヤク中はこんな気持ちなんじゃないかと思うくらい頭もフラフラして、その後の吐き気も酷い。一生吸わねぇぞと思った

 


〜  一年後  〜

 

 


なんていうか手持ち無沙汰になり、あぁそういえばと思って、案の定ずっと同じ所に埋もれていた煙草を吸った。煙草って開けっ放しにしておくと湿気ると聞いたんだけど、私にはこれが湿気ているのか湿気ていないのかすらわからない。そしてやはり不味かったのですぐに捨てた。ていうかまともに煙草を吸ったことがないので、捨て方がわからない。ていうか灰皿すら家に無いので、カンカン(ってみんな言うのかな)のフタを灰皿代わりにして、灰は水で溶かしてゴミ箱に捨てた。それからなんとなく部屋が焼き芋の匂いがするのだけど、もしかしてまだ燃えているのかな。

 


煙草っていいことがない。
死期が迫るだけだし部屋が臭い。
けれど、換気の為に窓を開けたら程よく冷たい風が、程よく入ったり出たりして、心地よい。やっぱり人生悪いことだけじゃないよな、と思う。(しみじみ)

 

風の音を聞きながら、一体この歳になって何をしているんだ、と、まるで田舎のヤンキーみたいじゃねぇか、と思って、なんだか懐かしい感覚がした。ヤンキーになったことないけど。yeah

 


とにかく、これで十分懲りたのでとても満足している。ていうか世間ではもう、電子タバコが主流になりつつあるのね。私がせっかく煙草デビューを果たそうとしているというのに。こうやってパッと死んでいくのよね。

 


自分も吸おうとしていて何だけれど、本当に煙草は好きじゃない。初めの頃は匂いすら嫌で嫌で嫌で、絶対に煙草のある場所へは行きたくなかったし、どうしても煙草の煙に監禁されるような事態には、もう本当に死んでやろうかと思っていた。それは嘘だけど。

 

今だに、近くで煙草を吸っている人に対して、絶対私より長生きすんなよ、まじで、と思っている。これでもやんわり言っている。本当はもっと直接的に、言ってはいけないことを言いたい。でも言わない。平和主義だから。ラブ&ピース。喫煙者の知人がこれを読んでいたらどうしよう。終わりだ。この世の終わりだ。オーマイゴッド。ごめんね。

 

 

明日の朝、部屋が焼け焦げていないかだけが心配。

石ころ

 


石ころと会話ができたら楽しそう。
拾う度に、話し掛けてくれる石ころ

 

そやつらが面白いやつらだったら、もっと楽しそう。
お笑い芸人みたいに、拾うとギャグを言ってくれて、どれでも好きな石ころを二つ同時に拾うと、即興で漫才をしてくれる。
笑い方が面白い石ころとか、昨日あった面白い出来事を話してくれる石ころとか、いたらいいなぁ

 

そう考えると石ころになるのも悪くない。
高校生の頃まで散々蹴り飛ばしていた事を、申し訳なく思う。

 


自然と会話が出来たらおもしろいだろうにな。(趣深いほうの)

嘘か本当かはわからないけれど、花と会話ができると言っていた女優さんがいたし、小人が見えると言っていた芸能人もいた。
動物と会話ができる外国人もいるし、霊と会話ができる人もいるのだからたぶん、本当に、彼らは話ができるんだろうな、凄い、そして、至極羨ましい。

 

何かそういった、特殊な能力を持っている人にしかできないことで、きっと私が後天的に得られる能力ではない。から本当に羨ましい。

 


猫とも話をしてみたいな〜、あの子たちはいつも何を考えているんだろう。猫同士の会話も聞いてみたいし、猫の集会にもお呼ばれしたい。山奥の大樹なんかとも会話ができたら、人生がとても豊かになりそう。何千年も生きているから、きっと何でも知っている。私の悩みなんぞちっぽけでくだらぬと、威厳を持って教えてくれそう。




今、目の前にテントウムシがいるのだけど、たぶん、私に何か訴えている。全くわからないけど。そんな気がする。

 

毎日密かに鍛えていたら、いつか本当に、何かしらと話せるようになるんでないかな〜

 

 

生きることが全てで、それが正しいわけではない。

 

死にたいわけでも死ねと言うわけでもないけれど、生き切った者が必ずしも偉いわけでもない。

 


わけわからないがそういうわけ

 

読む

 

 

国語が好きだった。
漢字や四字熟語や、文章を読むのが好きだった。

 

けれど読解が出来なかった。
「この一文に込められた話者の意図を説明せよ」なんていう問題が、何よりも嫌いだった。

 

わからない。
選択肢があっても、ほとんど間違える。
ていうか会話に正解も不正解もなくね?いや、あるかもしれないけど、マルとかバツとか付けられなくね?とテストの度に思っていた。

 


人の思考がわからない。
大学時代、人と全く会話が出来ない時期があった。
相手の言っていることがわからず、グループにいても自分だけが理解できず、会話に遅れていく。
やっと納得できたかと思えば、いつでも上手い具合に取り違えていて、結局何について話していたのかわからない。

 

自分の話もまた、理解されなかった。
私は人間か?この口から出ている音は意味を成しているのか?と、疑うほどに、意思疎通が成り立たなかった。毎日不安で、悲しかった。

 

 

単に、人の話を聞いていなかったのかもしれない。ひとつ聞いてはひとつ忘れ、話が戻っても私だけ戻れなかったんだろう。ただの馬鹿じゃねぇか。


関係あるのかないのかわからないけど、推理系の小説やドラマに、まんまとハマる人間だった。今だにそう。
私の母は勘が鋭い。「あの人怪しい」「この人絶対犯人だよ」とかよく言い、結構当てる。私は大概「は?全然普通じゃね?」と思いながら観ているけど、結局その普通なやつが犯人だったりする。

こういうのも、詰まるところ読解力なのではなかろうか。観察力?
一人一人の言動に注意し、それを持続させ、話の前後を繋ぎ、最終的にその人その人の心理にも気付く。のかな?私にはわからないけど


言葉の無い会話って素敵よね。
音を発さずとも、相手の意思が読める。いいなぁ、そういう人間になりたいなぁ

 

10年

 

 

ふと、時間が戻ることがある。

十年以上前から日記を書き続けているけれど、

今日考えていたこととほとんど同じことを、日記を書き始めた当初にも書いたことがあった気がして、悲しくなった。

 

十年間、ずっと同じ場所にいる

どれだけ恐ろしいことか

 

 

 

割合

 

 

何にでも、数式のようなものがあって、それらの数は決まっているのかもしれない。

 

一日や、一週間や、一生といった、あるまとまった期間の中で、幸と不幸の割合は、決まっている気がする。

 

凄く嬉しいことがあったら、それに匹敵するくらいの悲しいことも起こる。小さな喜びに対して、ちょいと嫌なことが起きる。幸せが続いた後、よくないことが続く。そんなような気がする。

 

だから、よいことばかりの時こそ警戒せねばいけないし、悪いことが沢山あったら期待してもよい。

 

そんな気がする。

 

 

世の中の人々が皆、自分だと思うことがある。

 

家族や友人、毎日見掛ける人やテレビの中の人たち、地球の裏側にいる人たちや一度も会う事のない人たちでさえ皆、実は私自身なのだと、思うことがある。

 

人生には数え切れない程の選択肢があり、私たちは死ぬまでに何十億もの中から一握りの道を選んでいく。私が米粒以下の大きさでこの地球に出現した瞬間から、選択は始まり、選んだほうにも選ばなかったほうにも、どんどん下へと選択肢が続いていく。ねずみ算のように、二倍にも三倍にも何十倍にも、続いていく。

 

私が選ばなかった道を、実はもう一人の私が進んでいて、その先に続いている道をまた、もう一人、二人、三人と、別の私が歩き、生きている。今すれ違った全くの他人は、実はあの時あの道を選んだ先にいた私で、そこに座っている見知らぬ人も、私が選びそびれた先にいる私で、あの人も、この人も、私で、、、、と、思うのである。

 

だから稀に、本当に稀に、清々しくなる。生きている限り人と離れることはないし、生きている上での悩みは大概が人間関係から派生しているという。その人間が全て私なのだから、相手に一喜一憂する必要はない。この私が出来なかったことを、別の私が叶えていて、分かり合えない相手も、私で、全部自分なのだから、深く悩む必要はない。と、ごくごく稀に、思う。

 


そう考えると、何を選んでもよい気がする。