自分と無関係の人の言動に、ひどく励まされることがある。
どうにも落ち着かなくて、そうだあの人だと思って探したのだけど、もうどこにもいないらしい。
あんなに素敵だったのに、時はどんどん流れていって、あらゆるものは廃れていくのだと思い知らされて、また落ち込む。
死のことを考えると落ち着く。
いつか終わりが来るものは安心する。死にたくないと思えたらそれはそれで幸せだと思う。
アズミハルコみたいに、横道世之介みたいに、生きられたらよいのにな、といつも思う。
外の冷気も電車の中で暖まりたいのか、窓の隙間から容赦無く入ってくる。
外は真っ暗で、時折街灯の下に雪が白く光るだけ、
二両しかない電車のボックス席に、ボストンバッグとお土産袋をぶん投げて、自販機から落ちた瞬間からぬるいカフェラテを飲んでいる。憎めない甘ったるさがなんとなく心地よい。
懐かしい駅を通り越す。
もう二度降りることはないんだろう。
偉大な人の偉大な言葉の、底の意味を考えていた。ずっとずっと追いかけているけれど、追いついたことは一度もない。ずっとずっと深くて、ずっとずっと遠い。
ニューヨークの、9.11メモリアルのことを思い出して、壁一面に貼られた様々な空の色、あの日あの場所にいた人たちの目に映った空の色、その時のそれぞれの感情が伝わってくるかのような悲しみの色、こんなにも違って見えるのかと驚き、少しの恐怖も抱いたあの日のことを思い出して、
結局は空を見上げて「青いな」と思うくらいの感覚でしか、他の恐怖や悲しみを汲み取る事はできないんだろう。それでも理解のできる人間になって、死ぬまでそのままでいられたらな、よいな、
随分と長い夢を見ていた。
何らかの罪で、刑務所に入れられた。「普通は四日間拘置なんだけどね」と言われながら、翌朝に出してもらった。父が迎えに来てくれた。
夜、おばあちゃんの家へ行くと幼馴染みが来ていて、兄を車に乗せて行った。
拘置所を出てすぐ、ハンドボールの大会があった。
関東大会なのか全国大会なのか、とにかく優勝をした。中学時代の友人たちとだった。
もう亡くなってしまった、小学生の頃にとてもお世話になった監督が、そこにいた。
「今日は祝いだ!酒だ!」と喜んでいた。
宴会のできる居酒屋に行った。
高校の友人が、小学校と繋がっているんだよと、そこまで案内してくれた。
何かを探していて、ひとりで学校の教室へ戻ろうとしたら居酒屋の店員さんに「道はあっちですよ」と言われ、非常階段のような階段を上った。小学生たちが上を歩いていた。
いつのまにか、タイムワープのようなことが起こっていて、その小学生たちと一緒に恐竜のいる時代(なんとか紀みたいな時代)にいた。恐竜は、骨だけで動いていた。
怖くなって帰る道を探した。
そこへ母がやってきた。
なんとか母について行って、ドラえもんの空間移動みたいな丸をくぐり、マンホールの下の、排水が流れてくる狭い空間みたいなところを這って行った。
そうして居酒屋に戻った。昔可愛がっていた後輩が、お祝いをしたいと連絡をくれていた。もうすぐ宴だという時に、目覚まし時計が鳴った。
監督とは結局、お酒を飲めなかった。
最近、走馬灯のように色んな人が夢に出てくる。
生理的に無理だと感じる人が結婚していると、ホッとする。自分の感覚が可笑しいだけで、あの人は普通なんだと思って安心する。
人間的に無理だと思う人が周りに好かれていたり信頼されていたりすると、諦めがつく。自分だけがその人やその人を取り巻く環境から、そっと離れればいいのだと思って、もういっか、なんて思える。
と言いつつもなんとなく腑に落ちないからこうして書いている。そんな事もある。
心地よいと思える人だけと、同じ空間を共有できたらいい。
そういう人の幸せを願って、不運に悲しめたらいい。
感情は少ないほうが楽だろうな、と時々思う。
機械のように淡々と生きていたほうが、文字通りの平穏で暮らせるのではないかと思う。
だから時折、よい感情も好ましくない感情も、閉じ込めてみることがある。悲しいことや不快なことを見て見ぬ振りをし、愉快なことや刺激のあることにも関わらないようにすることがある。なるべく感情を平らにして、色んなものから少し距離を置いて。
昔好きだったものや信じていたものを、しばらくの間忘れていて、今日それをふと思い出して、そうしたらやっぱりそれが今でも好きで、今だにそれを信じていて、昔は何も考えずただがむしゃらに追い掛けていたことを、今では正しかったのだと思うようになっていて、好みや信仰に優劣や正不正はないけれど、それでも間違っていなかったんだとわかって、そうしたら涙が出てきた。何かを犠牲にしたわけでもないけれど、なんだか「報われた」という思いがした。
好きという感情は時々恐ろしい。
愛と憎しみが隣り合わせであるように、いやそれとはまた違うけれど、好きなもの程触れることが怖くなる。いつかそれらが消えてしまったら、あらゆる事実もすべて無かったことになっていってしまうのではないか。だから、幼い頃仲の良かった友人の家にあった、地下の物置みたいに、そういったところに押し込めようとしてしまう。いなくなった時に気が付かないで済むように。
ただそういう時、信じていてる人の言葉は強い。信頼というよりも、ほとんど信仰に近い、そういった人が放つ言葉は、とても重たい。 「真っ白に楽しんで」。たったそれだけの、たった一言が、今の私には酷く響く。
また別の人は、「欲張らなきゃ勿体無い。」と言っていた
時間という概念が無かったら、世界に時計というものが存在しなかったら、もう少し生き死にに対しての思考はぼんやりとしていたんだろうか。何歳まで生きられるとして、残りはあと何年で、これをするには何日かかって、今これを打っている間に何分が経過していて、そういったことを一々考えている間にも時間は過ぎ去っていって、時間という概念が有ろうが無かろうが時は流れていくのに、それが存在するから、私の部屋には時計があるから、街では12時のチャイムが鳴り駅には時刻表が貼られておりオリンピックでは100mのタイムが競われるから、私は時間というものに怯える。
と、嘆いたところで変わるものは何もないけれど。気休めに、あったかいコーヒーを飲んだりしている。
深夜、雪舞う中、全く知らない道を歩いていた。
人間には、そもそも生物には、得意不得意が必ずあると思う。単細胞にだって多細胞にだって、あるのだと思う。
方向音痴の度が過ぎている。
自分の脳の中に入ってみたい。たぶんドラえもんの、21世紀からのび太くんの机の引き出しまでに繋がる空間みたいに、歪んでいるのだと思う。ていうかこの前ドラえもんの映画を観たら、22世紀から来たとか何とか言っていて(あまりよく見ていなかった)、回る回るよ時代は回るなぁ、と思った。
道に迷い始めた頃、"信じる者は救われる"と言い聞かせて、携帯電話にも頼らずにひたすら歩き続けていたのだけれど、結果いつまで経っても目的地が見当たらず、不安になって小走りになり、中走りになり、大走りになっても延々と見知らぬ世界が続くので、一旦信念を捨てて地図を開いてみたらまんまと違う道を歩いていた。やはりエセのクリスチャンは見破られてしまうのだな。尊い。
途中、雪まみれで意味があるのかないのかもわからない傘を差しながら街灯も人気もない道を通ったり、突然上半身裸の男の人が家の扉から出てきたりして、恐怖というものをわかりやすく体感した。これまでは漠然としたものしか感じて来なかったので、非常にわかりやすかった。ありがとう。(?)
人気は一切無いくせに、新しげな足跡が一人分道に続いていて、一体誰がこんな時間にこんな道を、と思いながら歩いていたけれど、結局道に迷って折り返して、なんだか数十分前の自分とすれ違ったような気分だった。
ようやく道を把握した頃、家々の車が雪に備えてワイパーを上げている中、黒塗りのベンツだけが車庫に入って、楽しむように少しだけ雪を被りながら、ワイパーも上げずに休んでいるのを見掛けて、あぁこれが世の中だなぁ、と感じた。私にもいつかあれに乗る日が来るだろうか。
そうしてやっと、目的地に着き今に至る。小一時間、道に迷っていたようだった。
尊敬する人が、「時間は均一ではない。拡張して使うことだってできる。」と言っていて、ハッとした。でもまだ捉え切れていない。わかるようで、わからない。それでもいつかわかる時が来るのだと思う。
この間、物凄く手の綺麗な人と出会った。更にその人は、驚くほどに親切な人だった。手には限らないけれど、やはり内面は外見のどこかに、探せばちゃんと気付くところに、映っているのだと思う。
以前旅先で見かけた、吸い込まれるような瞳をしていた青年も、きっとそうなのかもしれない。あれは本当に不思議な感覚だった。本当に、心臓から全身まで、全て引きずり込まれてしまうような、美しい瞳だった。
愛されることの苦しさを、最近やっと知る。気が付いたというほうが近いかもしれない。何事にも、利点と欠点がある。光が強い分、影が濃くなるように、そういうような関係が、身の回りにも沢山存在する。
結局何が言いたいのだろう。
雪の白さは、一切罪がない。
「恐怖の大抵は想像上のもの」
わかってはいるけれど、ハッキリと文字に起こされると、心にズンと来る。
やはり好きな作家さんや尊敬している人の言葉は強くしっかりとしていて、水にフカフカ浮いている私に、ズシリと重りを置いてくれる。
「未知の物事に対して最初に不安を抱くことは至極当たり前のことだ」
これは偉大な先輩が言ってくれた言葉で、それを思い出す度私はほんの少し、前を向くことができる。一見誰にでもわかるようなことだけれど、それを明確な言葉として与えられると全く違うのである。
そんなわけで私はいつも、どうしても自分の中で何かに躓いてしまったり、折り合いがつかないで狼狽してしまったりする時には、彼へと連絡を取る。
電話をする度忙しさが伝わってくるけれど、それでも私の話を一つ一つ聞いてくれ、同情も妥協もせず公平な目で意見を与えてくれる。「単に自分の考えだけど」と言いつつも、いつだって必ず新しい道を見つけてくれる。何度、本当に何度、彼に感謝しその偉大さに畏怖したことか。
いつか誰よりも自分自身が満足できる人生の中心を見つけられた時、私は胸を張って彼に会いに行きたい。だから頑張ろうと思える。
先日たまたま見ていた動画の中で、どこかの大学の教授が「時間は命だ」と言っていたのが、ずっと頭の中でチラチラしている。
時間は命
この一秒も、意識していない一秒も、命
ピンと来るようで、私はまだそのスケールの大きさに追い付くことができないでいる。
時間というのは物凄く大切なものだけれど、それを「生かす」「無駄にする」というのは、一体どこで、どの時点で、誰が決めることなのだろう。それを私自身が決める時、私の人生は、今までの人生は、どうであったのか。私の「命」は、どの瞬間であっても、無駄だっただろうか。
日々考えが交錯していて、この前とは違う事を言っている気がする。
ただやっぱりいつでも思うのは、今日という日を楽しまねば、ということ。
どこにいても何をしていても、何もしていなくても、なんとなく落ち込む日であっても、もう今日は何もしたくないなと思う時であっても、楽しくなる方法を考えねば。いつだって楽しいほうがいい。いつまでも命が続くわけじゃあないのだから、楽しまねば。