概念

 

 

「外国には肩凝りという概念がないから、そこの人たちは肩凝りにならない」と、前に知人が言っていた。そうして「何にでも名前を付けるのはよくない。鬱病も名前が付いているから鬱になるのであって、名前が無ければその症状に気が付かないんだ」と、その言葉を聞いてホッとしたことを思い出した。彼はいつでもその時々の私に合う、深イイ話をしてくれた。

 

 


ただ今日言いたいのはそんな素敵な思い出のことではなくて、私自身にも肩凝りという概念が無かったということである。

 

ハタチ頃まで、私は肩凝りを知らなかった。というより自分が肩凝りをしていると思っていなかったの。もちろん肩凝りという言葉やその症状は知っていたけれど、自分には無関係だと思っていたし、肩が重かったり筋が痛むようなことは時々あったのだけれど、それはただの疲れだといつも思っていた。

 

しかしながらある日、同じ症状が起こりいつものようにマッサージをしていたら、その時一緒にいた母に「肩凝り?」と聞かれて、私は「いや、なんか肩が張る感じがして疲れるだけ〜」と答えたのだけれど、そしたら母が「それを肩凝りって言うんだよ」と言ったわけ。その時の驚きとこれを肩凝りだと知らなかったこの数年間を思った時の呆れ具合を、今でも覚えている。無知というより、単純にバカだった。

 

 


と、いうわけで今では肩凝りを知ってしまったので、たま〜にあ、肩凝りキタと思うことはあるけれど、やはり冒頭の彼の言葉を思い出して、なるほどな〜と、肩が凝る度に少し考えてしまう。

 

 

 

何でも知っていりゃあいいというものではないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

汚れちまった悲しみに

 


中学生の頃、国語の授業で中原中也のこの詩を習った。

 

当時はこの詩の初めから終わりまで一切意味がわからず、先生も深いところまで説明をしてくれないし、どうして国語の教科書はこの詩を扱っているのか、そして彼はどんな思いをこの詩に込めているのか、とにかく本当にピンと来なかったの。

 


それが今日、何故だかふとこの詩を思い出して、この詩を習った時のことを思い出して、そういえば"汚れちまった悲しみに"の続きはなんだったかなと思って調べてみたら、そうしたら不思議な程にスッと意味が入ってきてね、なんだか非常に感慨深く感じましたのよ。

 


本当にあの頃は、全く、本当に、ちっとも、理解できていなくて、"悲しみ"というワードが入っているのに悲しみの詩であることすらわからなくて、悲しみが汚れるって何?悲しみに雪が積もるって?どうして何度も"汚れちまった悲しみに"を繰り返すの?と、わからなすぎた記憶だけが濃く残っている。

 

 


今、実際この詩が何を表しているのかは私の解釈でしか理解し得ないけれど、それでもしんとした寂しさ虚しさと、ぼやけた鈍い恐怖を感じる。そして時の流れと自己の変化をひしひしと感じ、なんとも言えぬ感慨深さがやってきているのである。

 

 

 

 

人は可愛いものですね

 

 

 

私、やっと人を可愛いと思えた。

単純なかわいいでなくて、憎たらしさや可哀想さ、醜さや呆れた気持ちを含めた意味での可愛さ。

 

美空ひばりになれるんではないかと思った。
あの人は本当に凄い。
作詞、作曲は違う人がしたのだろうけれど、彼女が歌うことによってあの歌詞が生きるんだろう。そうなんだろう。

 

 

なんだかねぇ、人間って可愛いわよねぇ。

 

 

 

 

秘密基地

 

 

夜、電気を消して目を瞑って音楽を聴いている時、これが全てだなぁと思う。

 

何の全てなのかははっきりしないけれど、例えばこの街全体が、それかこの部屋の空間全てが、もしかしたらこの人生の全てが、今この、目を閉じて耳からやってくる音楽の、この一連の流れの中に、ある気がする。

 


映画のエンディングソングみたいで、死ぬわけではないけど、これまでの人生がエンドロールのように流れていくような気分。


このまま終わってもよいな、と思う。
とても幸せな気持ちで。
このまま終わるような気もする。

 

 

 

こういう、時折うまく説明できないような、不思議な感覚がすごく好きだ。誰かも同じような体験をしているかもしれないけれど、おそらく一生自分にしかわからない感覚。秘密基地にいるような気分。自分でもどこにいるかわからなくて、誰かにもわからない時間、空間。瞬間移動でも時空を越えるわけでもない、気持ちだけのことでもない、どこにでも行けそうな気がする。たぶん脳みその中だけの、世界で、本当に物凄く不思議な感覚。

 

 

こういう時、もしかしたらパラレルワールドにいるのかもしれない。パラレルワールドって、いかにも空想的で嫌だな〜。別空間に、いるような感じ。

 

 

 

 

夜が終わってしまうの、いやだなぁ。

 

 

 

ハイボール、作ったほうが高かった

 

 

タイトルの通り、缶を買うよりもウイスキーと炭酸水を別々に買ってハイボールを作ったほうが、かえって高くついてしまった話をします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


以上です。

 

 

 

なんでも既製品のほうが高いと思ったら大間違いよねぇ。やんなっちゃうわよねぇ。

 

 

人生、何でも経験だと思う。
たかだかハイボールでの数円の違いに嘆くのもどうかと思うけれど、失敗してみてでないとわからないこと、学べないことがあると、最近本当に、つくづく思うのである。

 

気が付けないことほど愚かなことはない。
は、言い過ぎたけれど、本当に、
自分がその立場になってからでないと気が付けなかったことが最近頻繁に起こって、あぁなんて私は馬鹿だったんだろうと、その都度思うのである。

 

ただ、遅くとも気が付けてよかった、と、その度に思い、それでもまだ気が付いていないままで偉そうに生きている部分がきっともっと沢山あるであろうことを考えて、恐ろしくなる。

 


世の中にはもっと、何にも気付かないで自分が正しいと思い込んでいる人が沢山いる。本当に愚かだ。自分が愚かであることに気が付けていないことが一番愚かだ。その分、私はまだよかったのだろうなぁと思う。自分が愚かであることに、バッチリ気が付いてしまったので。

 

 

 


昔、どこかの大人がしきりに言っていたような気がするけれど、やっと今になって確信を持てる。


"失敗は成功のもと"

 

本当に、誠本当に、そうだと思う。
成功しか経験していない人間よりも、沢山失敗して躓いて這いつくばって悔しい思いをして生き抜いてきた人間のほうが、強い。そしてきっと、優しい。長生きする。してほしい。(願望)

 

 

 

 

と、いうわけで、これからおいしくハイボールをいただく〜、至福〜

 

 

 

 

森になりたい

 

 

私は今モーレツに、森になりたい。


静かで穏やかで豊かな植物、動物たち、時には妖精(本当にいると思っている)、そしてそれらを守り率い支えている大樹、そう、

 

私は森になりたい。

 


現実的に考えれば森に住みたい。
鳥のさえずり、葉々のささやき、木々のぬくもり、花々の香り、清々しい風、優しい大地、温かく木漏れる太陽、静かで穏やかな日々、時をも忘れる生活、現世と他世の間のような空間、他を思いやり誰にも邪魔されない暮らし、本当の意味での共存、規則も罰則もない自由な世界、そう、私は今、とにかく、モーレツに、森に、住みたいのである。

 

 

 

怒る、や悲しむ、や苦しむ、のような負の感情を持つことは本当に疲れる。
他を、特に人間を、理解するのなんて殆ど難しいし、わざわざ無理矢理に理解する必要はないのだと、諦め半分に思う。

 

結局のところこの世界は、この私の人生は、私の中で起こり、生き、過ぎ、死んでいく。故に私は私の中に、森を作ることができるような気がしてきた。

 

私は今日から私の森に住むのである。

 

 

 

 

 

春、爛漫

 

 

春休みであろう小学生たちが外を駆け回って遊んでいて、なんだかホッとした。

少子化と機械化が進んでいる中、まだ家の外に出て原始的な遊び方をしていることに安心感を覚える。

 

小学生の頃よく通っていた駄菓子屋さんがとっくに店仕舞いをしているのは知っていたけれど、それでもカーテンの閉まったそのお店の前を通ったら、悲しくなってしまった。

 


何にでも終わりがあって、人との出会いにも、この命にもいつか終わりがくるけれど、どうか大好きな人たちだけは、離れていかないで〜と思ってしまう。寂しい。悲しい。心細くておそろしい。

 

 

人生は暇つぶし、と誰かが前に言っていた気がする。

今、ふと私もそう思う。


この人生はリハーサルのようなもので、この人生が終わった後に、何かもっと大きなものが、やってくるんではないか。

そう思いたいと思う心と、本当にそうなんではないかと思う心とがある。

 

だから自由だ。
この世界は、この人生は、全てが自由だ。

この世界は、この人生は、すべて自分の中にある。
私の頭の中で回っているだけなのだから、もっと気を楽にやっていこうではないか。

 

この世界で私は一人だけだし、一人ぼっちでもあるけれど、それでも私だけでない。
同じことを考えている人がいる。同じことに悩み、悲しみ、喜び、同じように生きている人がいる。大丈夫だ。

 

 

最高に最高な音楽を目一杯音量を上げて聴きながら、テレビに映っている理不尽な出来事を見たり、この世の中のことを考えたりしていると、笑えてしまうほど本当に不条理で、どうして私はこんなところにいるんだろうと思えてくる。


いつまでこんな所にいるんだろう

と、この前部屋で一人、無意識に近い状態で呟いていたことを思い出す。

本当に、いつまでこんな所にいるんだろう。


最近、どんどん短いスパンで、日本に対する不信感や嫌悪感が生まれている。海外に触れる機会が増えたからかもしれない。単に、今の自分を快く受け入れられないからかもしれない。


何処かへ行きたい。遠くへ、できる限り何も知らない、何も知られない所へ。

この世界から、この国から、この街から、この部屋から、飛び出したい。

世界は広いくせに何処へだって行ける。何処へだって行けるのに、どうしてこんな狭い部屋に閉じこもっているんだろう。

 

 

地下にいる気分なわけではないけれど、空が青くて真っ白い雲が気ままに動いているのを見ると、なんだか自分と比べてしまう。

 

尊敬する人が、過去も現在も未来も、本当は同じ空間の中にあるのではないかと言っていた。そうだったら、そうだったら私は今何を考えて何をしたらいいんだろう。


偉大な人の陰には人や生きとし生けるものの死がある。

 

 


最近お酒が飲めなくなってきたし、お酒を飲んだ夜はあまりよく眠れないし、眠たい日は生と死の狭間にいるような気がしてくる。


時折何の為に生きているのかわからなくなる。
死にたいに繋がるわけでなくて、単純な理由がわからない。

 


助けてほしくって
合図を出してみようかと思うけど
怯えてしまってできなくて
ぐるぐるグルグル
曲がった配管を転げ落ちていく気分

誰かに愚痴を聞いてほしい
否定をせずに、うんうんそうだね間違ってないよって、言ってほしい

そんな居場所なんてないのよ〜


憧れている人のことを思い出して、物凄く胸がホッとした、わたし間違ってないやと思える

 

 

 


ここ最近書き留めておいたメモ5、6個を面倒臭いのでひとつにまとめたら、全然まとまっていないけれど面倒臭いのでそのまま保存しておく。思考の整理ができないとずっとモヤモヤが残る。これで少しは脳みそにスペースができたかしら。

 

あと30個くらいあるメモを、早くゼロにしたい、、、。