ゾンビ

 

 

・人間の三倍くらいの大きさの亀が、ギリギリ入るくらいの水槽に斜めに(たぶん入りきれていない)入っている夢

・自分でない、全く知らない人になって、全く知らない友人と話をしている夢

・誰か(誰だったか思い出せない)を背負って学校の階段を上る夢

 


という、見た夢のメモを残して早一ヶ月が過ぎた。消してもよかったのだが、どうもインパクトがあったので消すに消せず、かといってどう処理したらよいかも分からず、てくてくと日は過ぎるのであった、、、、。

 

 

 


(完)

 

 

 

 

 

 

 

 

で終わりにできるわきゃないよね〜。そうよね〜。
でももう夢に関して話が広げられないので、今日思ったことを書き留めておこう〜。

 

 

 


どうしてゾンビはどの映画でも、同じような設定なのか?

 


おお、これやってみたかったのよね。よく色んな人のブログを読んでるとさ、主張したい部分を大文字にしたり太字にしたり、してるじゃない。私もあれ、いいなぁと思ってたのよね。でもトコトン機械音痴だから、どうやるの?の前からメンドクセ、やーらねっ、と諦めていたわけ。どうして今急にやるに至ったかというと、今どうしてもデデーン!と表記したかったからである。しかもすぐできてびっくり。楽しい。

 


それでそのゾンビがさぁ、どうしてどの映画に出てくるゾンビも、見た目があんなんで、手を前に出していて、ユラユラする歩き方で、そして生きた人間を追いかけて、噛み付いて、そんで噛まれた人間はゾンビになってしまって、ゾンビを殺すには頭をブチ抜くしかないのか。

 

まぁ吸血鬼が、光に弱くて犬歯が飛び出ていて人間の血を好むのと同じように、それでなければ吸血鬼と呼べないように、ゾンビもそれらの特徴があってのゾンビであって、水中で生活するから魚類だとか飛べる生き物だから鳥類だとか、そういうもんなんだろうけれど、そういうんでなくてさぁ、なんかさぁ〜〜〜、

 

ゾンビって存在しないじゃん。現実では。
だからゾンビっていうものをさ、どの場面でも統一させなくてもよくない?
今では俊足で超強いゾンビとかも出てきてるけどさ、そういうことよ。そういうこと。どんどん個性出してこ。ゾンビも吸血鬼も。🧟‍♀️🧟‍♂️🧛‍♀️🧛‍♂️てかこの絵文字超キュートじゃない?

 

 


ゾンビについて調べてみたら、本来ゾンビは奴隷として使われる存在らしい。昔のどっかの国では。人を食べたりしないらしいよ。人間の発想って、おもしろい〜〜〜

 

 

 

 

概念

 

 

「外国には肩凝りという概念がないから、そこの人たちは肩凝りにならない」と、前に知人が言っていた。そうして「何にでも名前を付けるのはよくない。鬱病も名前が付いているから鬱になるのであって、名前が無ければその症状に気が付かないんだ」と、その言葉を聞いてホッとしたことを思い出した。彼はいつでもその時々の私に合う、深イイ話をしてくれた。

 

 


ただ今日言いたいのはそんな素敵な思い出のことではなくて、私自身にも肩凝りという概念が無かったということである。

 

ハタチ頃まで、私は肩凝りを知らなかった。というより自分が肩凝りをしていると思っていなかったの。もちろん肩凝りという言葉やその症状は知っていたけれど、自分には無関係だと思っていたし、肩が重かったり筋が痛むようなことは時々あったのだけれど、それはただの疲れだといつも思っていた。

 

しかしながらある日、同じ症状が起こりいつものようにマッサージをしていたら、その時一緒にいた母に「肩凝り?」と聞かれて、私は「いや、なんか肩が張る感じがして疲れるだけ〜」と答えたのだけれど、そしたら母が「それを肩凝りって言うんだよ」と言ったわけ。その時の驚きとこれを肩凝りだと知らなかったこの数年間を思った時の呆れ具合を、今でも覚えている。無知というより、単純にバカだった。

 

 


と、いうわけで今では肩凝りを知ってしまったので、たま〜にあ、肩凝りキタと思うことはあるけれど、やはり冒頭の彼の言葉を思い出して、なるほどな〜と、肩が凝る度に少し考えてしまう。

 

 

 

何でも知っていりゃあいいというものではないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

汚れちまった悲しみに

 


中学生の頃、国語の授業で中原中也のこの詩を習った。

 

当時はこの詩の初めから終わりまで一切意味がわからず、先生も深いところまで説明をしてくれないし、どうして国語の教科書はこの詩を扱っているのか、そして彼はどんな思いをこの詩に込めているのか、とにかく本当にピンと来なかったの。

 


それが今日、何故だかふとこの詩を思い出して、この詩を習った時のことを思い出して、そういえば"汚れちまった悲しみに"の続きはなんだったかなと思って調べてみたら、そうしたら不思議な程にスッと意味が入ってきてね、なんだか非常に感慨深く感じましたのよ。

 


本当にあの頃は、全く、本当に、ちっとも、理解できていなくて、"悲しみ"というワードが入っているのに悲しみの詩であることすらわからなくて、悲しみが汚れるって何?悲しみに雪が積もるって?どうして何度も"汚れちまった悲しみに"を繰り返すの?と、わからなすぎた記憶だけが濃く残っている。

 

 


今、実際この詩が何を表しているのかは私の解釈でしか理解し得ないけれど、それでもしんとした寂しさ虚しさと、ぼやけた鈍い恐怖を感じる。そして時の流れと自己の変化をひしひしと感じ、なんとも言えぬ感慨深さがやってきているのである。

 

 

 

 

人は可愛いものですね

 

 

 

私、やっと人を可愛いと思えた。

単純なかわいいでなくて、憎たらしさや可哀想さ、醜さや呆れた気持ちを含めた意味での可愛さ。

 

美空ひばりになれるんではないかと思った。
あの人は本当に凄い。
作詞、作曲は違う人がしたのだろうけれど、彼女が歌うことによってあの歌詞が生きるんだろう。そうなんだろう。

 

 

なんだかねぇ、人間って可愛いわよねぇ。

 

 

 

 

秘密基地

 

 

夜、電気を消して目を瞑って音楽を聴いている時、これが全てだなぁと思う。

 

何の全てなのかははっきりしないけれど、例えばこの街全体が、それかこの部屋の空間全てが、もしかしたらこの人生の全てが、今この、目を閉じて耳からやってくる音楽の、この一連の流れの中に、ある気がする。

 


映画のエンディングソングみたいで、死ぬわけではないけど、これまでの人生がエンドロールのように流れていくような気分。


このまま終わってもよいな、と思う。
とても幸せな気持ちで。
このまま終わるような気もする。

 

 

 

こういう、時折うまく説明できないような、不思議な感覚がすごく好きだ。誰かも同じような体験をしているかもしれないけれど、おそらく一生自分にしかわからない感覚。秘密基地にいるような気分。自分でもどこにいるかわからなくて、誰かにもわからない時間、空間。瞬間移動でも時空を越えるわけでもない、気持ちだけのことでもない、どこにでも行けそうな気がする。たぶん脳みその中だけの、世界で、本当に物凄く不思議な感覚。

 

 

こういう時、もしかしたらパラレルワールドにいるのかもしれない。パラレルワールドって、いかにも空想的で嫌だな〜。別空間に、いるような感じ。

 

 

 

 

夜が終わってしまうの、いやだなぁ。

 

 

 

ハイボール、作ったほうが高かった

 

 

タイトルの通り、缶を買うよりもウイスキーと炭酸水を別々に買ってハイボールを作ったほうが、かえって高くついてしまった話をします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


以上です。

 

 

 

なんでも既製品のほうが高いと思ったら大間違いよねぇ。やんなっちゃうわよねぇ。

 

 

人生、何でも経験だと思う。
たかだかハイボールでの数円の違いに嘆くのもどうかと思うけれど、失敗してみてでないとわからないこと、学べないことがあると、最近本当に、つくづく思うのである。

 

気が付けないことほど愚かなことはない。
は、言い過ぎたけれど、本当に、
自分がその立場になってからでないと気が付けなかったことが最近頻繁に起こって、あぁなんて私は馬鹿だったんだろうと、その都度思うのである。

 

ただ、遅くとも気が付けてよかった、と、その度に思い、それでもまだ気が付いていないままで偉そうに生きている部分がきっともっと沢山あるであろうことを考えて、恐ろしくなる。

 


世の中にはもっと、何にも気付かないで自分が正しいと思い込んでいる人が沢山いる。本当に愚かだ。自分が愚かであることに気が付けていないことが一番愚かだ。その分、私はまだよかったのだろうなぁと思う。自分が愚かであることに、バッチリ気が付いてしまったので。

 

 

 


昔、どこかの大人がしきりに言っていたような気がするけれど、やっと今になって確信を持てる。


"失敗は成功のもと"

 

本当に、誠本当に、そうだと思う。
成功しか経験していない人間よりも、沢山失敗して躓いて這いつくばって悔しい思いをして生き抜いてきた人間のほうが、強い。そしてきっと、優しい。長生きする。してほしい。(願望)

 

 

 

 

と、いうわけで、これからおいしくハイボールをいただく〜、至福〜

 

 

 

 

森になりたい

 

 

私は今モーレツに、森になりたい。


静かで穏やかで豊かな植物、動物たち、時には妖精(本当にいると思っている)、そしてそれらを守り率い支えている大樹、そう、

 

私は森になりたい。

 


現実的に考えれば森に住みたい。
鳥のさえずり、葉々のささやき、木々のぬくもり、花々の香り、清々しい風、優しい大地、温かく木漏れる太陽、静かで穏やかな日々、時をも忘れる生活、現世と他世の間のような空間、他を思いやり誰にも邪魔されない暮らし、本当の意味での共存、規則も罰則もない自由な世界、そう、私は今、とにかく、モーレツに、森に、住みたいのである。

 

 

 

怒る、や悲しむ、や苦しむ、のような負の感情を持つことは本当に疲れる。
他を、特に人間を、理解するのなんて殆ど難しいし、わざわざ無理矢理に理解する必要はないのだと、諦め半分に思う。

 

結局のところこの世界は、この私の人生は、私の中で起こり、生き、過ぎ、死んでいく。故に私は私の中に、森を作ることができるような気がしてきた。

 

私は今日から私の森に住むのである。