9月7日

 

 

 

死を、深い意味でなくて、悪い意味でも失礼な意味でもなくて、近くに感じる、と言っている人がいた。

 


私もそうだなぁと思う。

 


実際には、程遠い。

死というもの、本質、恐怖、悲しみ、そういうものは知らない。

 


けど、いつでも死にたいと思うし、楽しい時も悲しい時もそう思うし、死にたい訳ではないし、むしろ死にたくもないし、毎日が楽しくて、日々の少しの幸せで十分希望が持てるし、未来が楽しみで、だから本当に、遠い。

 

 

 

 


ただ、仕事の後に、部屋でひとり、なんとなくテレビを付けて、楽しい映像を見て、悲しいニュースを見て、お酒を一缶飲んで、煙草を一本吸って、好きな本を少しだけ読んで、好きな音楽を聴いて、しばし考え事をして、夢を見て現実に戻って、明日の事を考えて布団に入るまでの間、私は死にたくなる。

 


良い意味でも、悪い意味でもない。

 

 

 

星を見て綺麗だなとか、外に出て暑いなとか、ご飯を食べて美味しいなとか、そういう感覚と似ている。ふと自然に出てくるような、感情。

 

 

 

 


色んな人の色んな生活を見ていると、色んな事を考えるけれど、自分を生きられるのは自分しかいないんだなと、当たり前だけれど実感する。

 


だから精一杯生きようとか、誰かれの分まで生きようとか、時間を無駄にしないようにしようとか、社会に貢献しようとか、生まれた意味をちゃんと見つけようとか、価値を大切にしようとか、そういうことを思うわけではない。

 

 

 

ただ、私は一人で、この命はひとつで、この人生は一本しかなくて、そういうものがこの世界に何十億とあって、と、よくわからんことを思う。

 

 

 

 


結局もう少ししたら意識を手放して、明日になれば今日と大体同じような生き方をして、そういう毎日を何百回も繰り返していくんだな、とかなんとか思って、特にこの頭の中には大したものはなくて、それでも少し、取っておきたい。

 

 

 

というもの

 

 

 

人生には、比率や確率や定めのようなものが、ある。と、最近常々思う。

 


前にもそんなようなことをここに書いていた気もするけれど、ある一定の期間の中で、よいことと悪いことの比率は決まっている。

 


また、よいことが何度か連続すると、しばらくそれは続くし、悪いことが続けばまた、それはしばらく続く。そういうものだと思っている、というより、わたしの人生は実際そういうふうにできている。みなも同じような気がする。

 

先日、本当に笑ってしまうほど、よくないことが続いた。どれだけ注意しても連鎖して、どれも取るに足らないちっぽけなことではあったけれど、それでも何度も続いてしまうとよくない感情も起こる。それをこれまでの経験から、「あ~、はいはいそういう時期ね、いまそういう時なのね、はいはいわかるわかるぅ~、はいどうぞがんばって~」という心持ちで対応すると、概ね寛大な心で受け入れることができるのである。

 

 

自分のことは自分が一番理解していないとは言うけれど、本当に、自分を研究して理解してうまく操作できるようになると、楽しい。人生は何倍もよくなる。

 

 

 

(完)

 

 

 

 

 

 

 


続きまして、失敗は成功のもと、という話。

 


なんでも成功して、ずっとそうやって過ごせるのなら、それが一番いいのかもしれない。

 


ただわたしは、本当によく失敗して、小さなことから結構痛いことまで、呆れるほどに失敗して生きてきて、ちょっと前までは「あ~、もう、なんでわたしはこんなことで、こんなんばっかり、あ~~~~」、と、思っていたのであるが、最近は考え方が変わった。

 


失敗こそが大切な経験で、マイナスとマイナスを足すとプラスになるみたいな、一見ダメに見えるけど後々強大な力を発揮するみたいな、それほど大切というよりも必要なことなのだと!わたしは!ついに!気が付いたのである。

 


失敗しないと見えない景色、わからない感情、そういうものが本当に沢山あるのだと、何年も何年も失敗を重ねてきて、やっと気が付いた。成功は、そのうちできる。何回も何回も失敗していれば、いつかは、いつのまにか、成功している。けれどいきなり成功してしまったら、失敗した時に知る色んなあれこれを、全く知らないで終わってしまう。それがどれだけ恐ろしくて、得るものが少ないのか、ということを、最近ひしひしと感じるのである。

 


また。それと関連していると思うこと、

人や何かの場面に接する時、自分も以前その人と同じ立場に立ったり、その場面に遭遇したりした経験がないと、相手の考えや感情は理解できないのだ、ということ。察することはできても、根っから理解できることはない。(同じ経験をしていたとて、100パーセントは分かり切れないけれど)

 


だから、今の自分だけの考察で勝手な意見を言ったり行動したりするのは、違うなぁと、思うのである。どれだけ間違っていると思うことを相手がしていても、どれだけ受け入れられない場面に置かれたとしても、なるべく否定をしないようにしたい、いつかそれらがわかる時が来るはずだから。

 

 

 

 


ここぞ、という時に成功できるよう、今はまだまだいっぱい、失敗しておこう。千手観音みたいに、沢山手を出して、色んな物事をキャッチできるように、しておこう。

 

 

 

 

 

 

世界の終わり

 

 

いっつも、お楽しみの前の夜は眠れない。

いつまでも小学生みたい。

幾つになっても、遠足の前夜みたいにワクワクしてしまう。

できればぐっすり眠って、明日の為のエネルギーを溜めに溜めて、そいで明日に思いっきり出し切りたいのだけれど。

 

 

眠れないから四年ぶりくらいに聴く曲を聴いてみて、真っ暗闇の中で、自分が今どこにいるのかちょっとわからなくなっている。四年前に戻れたら。四年前でなくても、あの時やあの時やあの時に、戻れたら。戻りたいのかな。そりゃあ戻れたほうがいいでしょうね。それでいつまでも、そこにいたい。

 


あ~~~、ひとりの夜はなんでいつでもセンチメンタルなんだろうね~~~。

 

 

 

 


時々とても不思議な感覚になる。

ここにいるのに、いないような、この世界と、またもうひとつの別の世界を行き来しているような、そんな感じがする。たぶん本当に、そういうことなんだろうとも思っている。人生は、私の生は、死も、全部この脳みその中にあって、この脳の中にしかなくて、だからきっと、どうにでもなるものなんだろう。

 

 

 

 

 

あっというまに

 

 

 

七月。

部屋のカレンダーは三月で止まっているし、掛け時計も十時三十四分で止まっているけれど、日に日に気温は上昇しているし、鳥の声から蝉の声に変わりつつある。

 


二十日ばかり早くやって来た梅雨は、律儀に二十日ばかり早く去って行った。梅雨というくせに雨もほとんど降らせず、雨が降っても雨が降らなくても文句を言われる梅雨。今年もお疲れ様でした。

 

 

 

実家の猫が、会う度に余所余所しくなっていく。昨日なんか、名前を呼んでも無視、頭を撫でてもスルー、一瞥すらくれない様子で、私は相当ヘコんだ。家の近くの駐車場でニャーニャー鳴いていたのを、腕や顔を引っ掻かれながら無理矢理我が家に連れてきた十三年前に想いを馳せる。奴はそんなことすっかり忘れているんだろう。まったく猫ってぇのは、薄情というか淡白というか、それがいいところでもあるんだけどねぇ、あたしゃ相当ヘコんでんのよ。

 

 

 

実家の周りは田んぼが多く、夏になると毎晩蛙が大量に鳴く。それが当たり前で育ったので、今の静かな夜はなんだか味気ない。そうしてひと晩この家で眠ると、なんとも言えない、ひっそりと深い幸せを感じるのである。

 


朝、四時前にはもう空が明るくなり始めていた。夏のそういうところが好き。朝だよ~!もう朝始めるよ~!早起きは三文の徳!ほれ三文と言わず五文も六文もあげちゃうよ~!起きろ起きろ~!起きなくてもいいけど勝手に朝始めちゃうよ~!今日もお天気だよ~!今日もいい一日にしちゃうよ~!ワッホ~イ!という雰囲気が、とても好き。

 

 

 

それにしても暑い。

暑いけれどたまに、気温が皮膚の温度とピタッと同じ温度になり、皮膚を夏の空気の中に溶かし出してしまうような、結局は暑いのだけど、「あ、溶けた」と感じて少しばかり心地よくなる瞬間がある。

 


夏の、他に物を言わせぬ陽の強さと、巻き込まれてしまいそうな空気の気怠さがなんとも言えない。う~~~ん、夏!やっぱりいいね、夏!

 

 

 

 

 

 

と、七月の頭に書いてそのままだった。

西日本での洪水被害の甚大さが日に日に明らかになってきて、ただただ恐ろしい。

行方のわからない家族の戻りを待っている人たち、遺体となって帰ってきた家族と再会した人たち、浸水して泥まみれになった家の中や道路を片付けている人たち、この事態に漬け込んで盗みや詐欺を働く人たち、色んな映像を、テレビの画面を通して毎日見ていて、表現の仕様がなく、胸が痛む。胸が痛むと言うのですら、申し訳ない様に思う。どうしてよいのかわからない。私にできることなど、想い祈ることしかできないんだろう。

 

 

 

タイでの洞窟に閉じ込められた少年たちのニュースも沢山見て、やっと全員が救出されたらしく、それはとてもよかったと思うけれど、こういうニュースを見る度に、先が不安になる。

 

 

 

飛行機に乗れば落ち、船に乗れば沈み、山に登れば土砂が崩れ、洞窟に入れば閉じ込められ、かと言って家でゆっくり過ごしていたら今度は洪水、もう何処にいても何をしても駄目なのでは、と思ってしまう。いつ自分が巻き込まれるのかもわからない不安と、何事もなく一生を終えられる確信がない不安と、とにかく不安だらけ。

 

 

 

 


歌丸さんの死が、今だに信じられない。衝撃的なニュースだった。

日曜の夕方と言えば笑点だった。ちびまる子ちゃんでもサザエさんでもなく、というか笑点の後には観ていたけれど、私にとって日曜の夕方に居間で家族と観るテレビと言えば、紛れもなく笑点だった。

 


歌丸さんの最後の頃の姿を見ると涙が出てくる。若い頃は知らないけれど、若い頃から華奢だったようだけれど、それでもいつのまにか八十一歳になっていて、いつのまにか腰も曲がり掛けていて、いつのまにか鼻にチューブを付け体は細く細くなっていて、それだけ月日を重ねたのだということを、ずしりと感じた。ミスター笑点、本当にミスター笑点だなぁと思う。

 

 

 

都会の緊張感と疲労感に満ちた静けさのある電車でなく、人気の少ない、穏やかに静かなこの田舎の電車が、とても心地よい。トンボが車内を飛び回っている。早くドアを見つけて出られるといいね。

 

 

 

 

 

 

ひとつ感情をまとめると、ホッとする。

さて次は、

 

 

 

ポピー

 

 

 

考えることって、物凄く時間と、頭脳と、体力を使う。

 


毎日バタバタしていて、あれもこれもあとでいいや~、あとでゆっくり考えよ~うと思えどその"あと"が来る頃には果てさて私は何を考えていたんだろうかと忘れてしまう。最近それをずっと繰り返している。

 


今日は寝る間も惜しんで考えることにした。しかしながら眠い。(ビールを飲みながら)

 

 

 

 


毎日、他の影響を受けているなぁと感じる。今のご時世、SNSからの影響はとりわけ凄まじい。情報が入り混じっているので、よく自分の目・耳・脳・感覚で捉えて判断せねばいけない。

 


今日、ある言葉におぉ、と思った。

「自分は他者に映っている」というような内容だった。近しい親しい人の性格や雰囲気が、自分のそれと似通っている、ということだった。仲の良い人が素晴らしい人であれば自分もそうであるし、あまり敬えぬ人ばかりであれば、自分もまたそういう人間なのである、と、そういったこと言っていたのだった。

 

 

 

それを考えた時、今ではもう、この人!と言える人は指折り数えるほどでもなくなってしまったけれど、それでも「最も親しい人」を思い浮かべる時に迷いなくパッと出てくる人たちは、少なからず私が尊敬していて、ここが本当に素晴らしい、と思うところがあって、その人たち同士の雰囲気もやっぱり似ていて、優しくてほんわかしていて、愉快な人だなと思う。

 


親しいとまではいかぬものの、これからもずっと付き合っていきたいなぁと思って連絡をする相手もやはり、素敵な人たちばかり。

 

 

 

まぁでも、そらぁ自分が好きな人と関わっているわけなんだから、その人たちがいい人に見えるのは当たり前なんだけれど、それでもやはり、そういう人たちはみな、誰から見ても素晴らしい人たちだと思う。

 


昔仲の良かった人、一時期仲の良かった人も沢山いるけれど、う~んと思うところがあって関わらなくなっていったし、今そういう人たちのことを思い出してもやっぱり、尊敬できないなと思う。

 

 

 

だから結局なんやねん、と思い始めたけれど、そういう素晴らしい人たちが自分の近くにいることと、自分自身に対しても、誇りを持ってよい、いや持つべきなんだ、how wonderful!!! と、いう気持ちで今日はとっても最高な気分です。

 

 

 

 


寝る間も惜しんで考えるぞ!と意気込んだ昨晩は呆気なくすぐ眠りに就いて終わったので、結局今朝のわたしが引き継いで書いている所存である。なんだか二人分生きている気分。

 

 

 

 


この前サッカーワールドカップが始まりましたが、始まった途端、これまでサッカー好き感を一切出していなかった人たちが唐突に次々とテレビに食らい付き、様々なコメントを出し始め、青色のユニフォームを着て街を歩き、顔に日の丸のペイントをし、日本の結果に一喜一憂していて、私はそれを不気味だなと思っている。

 


いやそらぁ国を代表した一大イベントですもの、国民として注目し応援するのは当たり前でないか。そうは思うのだけれど、なんだろうこの違和感。オリンピックの時期にも感じていたこの違和感。

 


私だってスポーツは好きだし、ルールもわからずサッカーやラグビーを観に行ったこともあるし、テレビでバレーやバスケを見出せば画面に釘付けになるのだけれど、なんだろうなんだろう、なんなんだろうこの違和感は。

 

 

 

まぁでも一番不気味なのは、国家一大プロジェクトたるワールドカップやオリンピックにほとんど無関心な私なのかもしれない。

 

 

 

ところでワールドカップをW杯と書くの、ワールドのWはわかるとしてカップの部分を"杯

"と書くところ、改めて考えたらイカしてるな~、と思った。ガンバレ、ニッポン!(は?)

 

 

 

 

 

 

電車からポピーの咲いているのを見て、そう言えばわたしはポピーが好きだったな、と思い出した。いつもこの時期だったんだろうか、電車に乗った時、沿線に咲いているのを見るのがとても好きだった。

 


田舎って本当に、素敵だなぁ~。

 

 

 

 

人生はワン、ツー、ジャンプ

 

 

出掛けようと思っていたけれど朝起きたら体調が悪くて、雨も降っていて、やめた。

 

結局珍しく昼過ぎまで眠ってしまい、あ〜やっちまったと思うも、こういう日も自分には大切だと思い、感謝の気持ちが生まれる。(誰に)

 

知人に薦められた映画を観る。
結末がハッピーなような、切ないような、これ!と言った終わり方ではないものの、サッと風が吹くような、気持ちの良い終わり方だった。デトックス、というのだろうか。映画を観て涙を流す行為のことも。とにかく、それをした。


先のことを考えて、一喜一憂する。
夢や希望もあるし、不安や絶望もある。いつだってある。
ひとりで考える時間も、誰かに頼ることも大切だと感じる。だがその塩梅が難しい。
今はまだ準備の段階だろう、というのが今日の見解。

 


可もなく不可もない今日。
最近時間を持て余すことがあまりないので、何もすることのない時間があると怖い。勿体無いという気持ちとはまた違う、死に関する感情でもなく、ただなんとなく、怖いと感じる。

 

ぼんやりとした不安が生まれかけていたので、最近お気に入りの香水をひと振りする。うん、いい匂い。ちょいとハッピーになる。

 

それからやっぱり、お酒。
少し感覚を麻痺させたほうがよい。
私が死んだ時は、豪快にお酒をぶっ掛けて欲しいなと思う。大変お世話になっているので。

 


誰と関わっていようと、どこで何をしていようと、運命というものがあろうとなかろうと、その都度決断をしているのは紛れも無く自分、その決断をした瞬間から責任は全て自分にあるのだと、その先の道は自分のものになるのだと、この前観た映画でそう言っている人物がいた。

 

そうなのよね、何をしようと、結局これは誰のものでもない、私の人生なのよね。

 

 

 

 

さ〜て明日からまたゆっくり歩こう〜!

 

 

夏の匂い

 

 

夏の匂いはなんの匂いなんだろう。
ここ数日で、物凄く夏の匂いがしている。


夏はよい。
夏は、夏というだけでよい。
ジリジリと音を立てんばかりの陽の熱さも、モワッとしてボヤッとしてしまう空気の籠もり具合も、ジメジメしていてイラッとしてしまうほどの雨も、耳にこびり付いて離れない蝉や蛙の鳴き声も、暑くて寝付けない夜も、かといって冷房は付けずに窓を開けておく時間も、早い朝も、ちょっぴり薄ら寒い朝も、一日の始まりから終わりまで、何もかもが、よい。

 

夏の眩しさが本当に好きだ。
他に何も言わせないような、我が道を行くような、自由気ままで愉快そうな、怖いもの知らずのような、夏のそういうところが本当に好きだ。

(「〜だ。」という書き方、「吾輩は猫である」くらい偉そうでかしこまっていて、しっくりこない。)

 

 

とにかく最近急に夏を感じ始めて、高揚が止まらない。胸が熱くなって、泣きそうになる。本当に、泣きたくなるの。夏に対して。
夏のこの胸の高鳴りと切なさの矛盾が、何とも趣深い。

 

 

 

毎日色んな事に一喜一憂して、先のことを考えて希望を持ったり絶望したりを繰り返して、頭がこんがらがったりして、結局答えの出ない毎日だけれど、今日たまたま見つけた記事に出ていた人がね、「自分の精神の自由以上に大切なものはない」と言っていて、一瞬、何かにフワッと持ち上げられたような気分になった。

時々、誰かの言葉に掬い上げられるような気持ちになることがある。

 


自分の命、自分の人生だもの、誰のものでもない、誰の為でもない、世間体的にはあれやこれや面倒くさいけれど、自分の好きなように生きて、好きなように死んだらいいと思う。理解されなかろうと、私はとことん自分の意思に従って生き、死のうと思う。思った。今。