昨晩のこと

 


夜、たまに、別の世界に行けるんではないかと思う時がある。

 


幽体離脱みたいな、夢の中のような、そんな感じの、世界なんだけれど、大抵はお酒を飲んで煙草を吸って好きな音楽を聴いている時、そしてちょっと寂しくて虚しい時、そんな時、もしかしたら自分の中に潜在している特別な能力を使えて、それでこことは少し違った、クローンみたいな、A'の「'」みたいな、鏡に映った自分みたいな、同じようで少し違った、そういう世界に、行けるんではないか、今日の夜はそこに繋がっているんではないか、と、思うことがあるのです。

 

 

 

世界は、というより宇宙は、人間の計り知れる範囲よりも優に超えたところにある。はずだ。そうに違いない。だから、私が想像するよりももっと、色んな事象が起こって、私の知らないうちに終わっていく。そうなんだろう。

 

 

 

そう思うとね、まぁなんでもいっか、と、極論そう思うのである。46億年の地球の人生、地生?に比べたら、みたいな考え方で、いやぁそんなこと言ったって私のこの80年続くはずの人生は地球にとっての46億年と等しく劣るものではないのだけれど、なんかさぁ、よい意味で大らかになれる。ありがとう地球、偉大なる地球。

 

 

 

最近考えるという行為をすることがガクンと減ったけれど、それは良くも悪くもあるけれど、その間にも色んな人と関わって、新しい人とも沢山会ったし、尊敬できる人たちの話も沢山聞いたし、それでも自分の中の核は失いたくないという意地は持ち続けているし、川の中の石ころみたいに、水に押されながら、ちぃと流されながら、角を削られながら、実は自分の行きたいところへ連れて行ってもらっていたり、うまいこと丸めてもらっていたり、そんなことをしながら、結局何が言いたいのかというと、もっと自由でいいのだということ。私が最大限に私でいられる生き方をすべきだということ。

 

 

 

 

神がいない

 

 

 

十月。

時の流れが速すぎて、追いつけない。

 


早朝の、人気の少ない電車の、音が好き。

人間がまだ寝惚け眼の中、電車だけがシャンとして、静かに走っている。

 


山や近くの木や草が、赤く黄色く染まりかけている。空気が澄んでいて、風が優しい冷たさをしている。

 

 

 

電車の行く先のように、私の行く先もはっきりと決まっていたらよいだろうか。

 

 

 

 


十年後の自分が今の私を見ていたとしたら、何を焦ってるんだと微笑むのだろうな、と思う。そう思えるくらいの心の余裕が出来てきたということ。急ぐ事はない。あまり先を見過ぎて今を見逃してしまっては勿体ない。

 

 

 

 


ふぅ。

朝は気持ちが前向きになる。

今日のように清々しい朝は特に。

 

 

 

 

素敵な一日が始まる~~~!

 

 

八月

 

 

 

八月。

 


深夜でも三十度を超える真夏。

空気はモワモワ、肌はベタベタ、紫外線もバチバチ、誰かが「概念上の夏は好き」と言っていて、あ~、確かにクーラーのある涼しい部屋から入道雲を眺めたり蝉の声を聞いたりするのは好きだな~、と思ってしまったけれど、やっぱり私はモワンモワンでベッタベタでバッチバチの夏の中にいるのが好き。

 


仕事を変えてから、規則正しい生活を送っている。以前は何もない休みの日など寝休日が当たり前だったけれど、今や仕事の日よりも早く起きてしまうようになった。ザ・健康。

 

 

 

実家の留守電に、近所の人からの「獲れたキュウリをいつものところに置いておきました。よかったら食べてください。」というメッセージが入っていた。じんわりしてしまった。ここは本当に素晴らしいところだと思う。今のネット社会、(による直接的な人的コミュニケーションを避けた)孤独社会が進む中で、こういう少し原始的なやり取りがあると、ホッとする。私も結局親世代に比べたら人との距離を取り気味だけれど、やっぱりこういうコミュニケーションは大切で、素敵だなぁと思う。

 

 

 

 

終戦から73年。

毎年少しずつ、戦争経験者の方たちが減っていく。毎年その方々の体験談や、それに基づくドラマやドキュメンタリーをテレビで見聞きするけれど、その度に喉が詰まって悲しくなって、絶対に忘れてはいけないと思うけれど、結局未経験者の私たちには、雀の涙ほどのことしか分かり得ない。だから、経験者の方たちがこの日本から、この世界から、完全にいなくなってしまったら、その時を考えると本当に怖い。

 


そうして今年もまた、私は今日を生きたことに感謝する他ないのである。私なりに、73年前の広島に、長崎に、その時代を生きた人々に、想いを馳せてはみるけれど、なんとも無力に思えて、結局はここにこの命があることに、精一杯感謝をして、明日も生き抜いてやるぞと、踏ん張るしかないのである。

 


私をこの世に導いてくれたご先祖様には、頭が上がらない。有難い限りです。

 

 

 

 

 

 

最近、毎日闘っている。よい意味での葛藤。

 

 

 

 

 

 

 

と、いう独り言を、また八月に残してきてしまった。いつも頭の中は散らかり放題。

 

部屋の物の配置を少しだけ変えたら、気持ちも少しだけ新しくなった。

 

 

 


今日は今日の風、明日は明日の風、見えないものほどしっかり感じ取っていたい。

 

 

 

9月7日

 

 

 

死を、深い意味でなくて、悪い意味でも失礼な意味でもなくて、近くに感じる、と言っている人がいた。

 


私もそうだなぁと思う。

 


実際には、程遠い。

死というもの、本質、恐怖、悲しみ、そういうものは知らない。

 


けど、いつでも死にたいと思うし、楽しい時も悲しい時もそう思うし、死にたい訳ではないし、むしろ死にたくもないし、毎日が楽しくて、日々の少しの幸せで十分希望が持てるし、未来が楽しみで、だから本当に、遠い。

 

 

 

 


ただ、仕事の後に、部屋でひとり、なんとなくテレビを付けて、楽しい映像を見て、悲しいニュースを見て、お酒を一缶飲んで、煙草を一本吸って、好きな本を少しだけ読んで、好きな音楽を聴いて、しばし考え事をして、夢を見て現実に戻って、明日の事を考えて布団に入るまでの間、私は死にたくなる。

 


良い意味でも、悪い意味でもない。

 

 

 

星を見て綺麗だなとか、外に出て暑いなとか、ご飯を食べて美味しいなとか、そういう感覚と似ている。ふと自然に出てくるような、感情。

 

 

 

 


色んな人の色んな生活を見ていると、色んな事を考えるけれど、自分を生きられるのは自分しかいないんだなと、当たり前だけれど実感する。

 


だから精一杯生きようとか、誰かれの分まで生きようとか、時間を無駄にしないようにしようとか、社会に貢献しようとか、生まれた意味をちゃんと見つけようとか、価値を大切にしようとか、そういうことを思うわけではない。

 

 

 

ただ、私は一人で、この命はひとつで、この人生は一本しかなくて、そういうものがこの世界に何十億とあって、と、よくわからんことを思う。

 

 

 

 


結局もう少ししたら意識を手放して、明日になれば今日と大体同じような生き方をして、そういう毎日を何百回も繰り返していくんだな、とかなんとか思って、特にこの頭の中には大したものはなくて、それでも少し、取っておきたい。

 

 

 

というもの

 

 

 

人生には、比率や確率や定めのようなものが、ある。と、最近常々思う。

 


前にもそんなようなことをここに書いていた気もするけれど、ある一定の期間の中で、よいことと悪いことの比率は決まっている。

 


また、よいことが何度か連続すると、しばらくそれは続くし、悪いことが続けばまた、それはしばらく続く。そういうものだと思っている、というより、わたしの人生は実際そういうふうにできている。みなも同じような気がする。

 

先日、本当に笑ってしまうほど、よくないことが続いた。どれだけ注意しても連鎖して、どれも取るに足らないちっぽけなことではあったけれど、それでも何度も続いてしまうとよくない感情も起こる。それをこれまでの経験から、「あ~、はいはいそういう時期ね、いまそういう時なのね、はいはいわかるわかるぅ~、はいどうぞがんばって~」という心持ちで対応すると、概ね寛大な心で受け入れることができるのである。

 

 

自分のことは自分が一番理解していないとは言うけれど、本当に、自分を研究して理解してうまく操作できるようになると、楽しい。人生は何倍もよくなる。

 

 

 

(完)

 

 

 

 

 

 

 


続きまして、失敗は成功のもと、という話。

 


なんでも成功して、ずっとそうやって過ごせるのなら、それが一番いいのかもしれない。

 


ただわたしは、本当によく失敗して、小さなことから結構痛いことまで、呆れるほどに失敗して生きてきて、ちょっと前までは「あ~、もう、なんでわたしはこんなことで、こんなんばっかり、あ~~~~」、と、思っていたのであるが、最近は考え方が変わった。

 


失敗こそが大切な経験で、マイナスとマイナスを足すとプラスになるみたいな、一見ダメに見えるけど後々強大な力を発揮するみたいな、それほど大切というよりも必要なことなのだと!わたしは!ついに!気が付いたのである。

 


失敗しないと見えない景色、わからない感情、そういうものが本当に沢山あるのだと、何年も何年も失敗を重ねてきて、やっと気が付いた。成功は、そのうちできる。何回も何回も失敗していれば、いつかは、いつのまにか、成功している。けれどいきなり成功してしまったら、失敗した時に知る色んなあれこれを、全く知らないで終わってしまう。それがどれだけ恐ろしくて、得るものが少ないのか、ということを、最近ひしひしと感じるのである。

 


また。それと関連していると思うこと、

人や何かの場面に接する時、自分も以前その人と同じ立場に立ったり、その場面に遭遇したりした経験がないと、相手の考えや感情は理解できないのだ、ということ。察することはできても、根っから理解できることはない。(同じ経験をしていたとて、100パーセントは分かり切れないけれど)

 


だから、今の自分だけの考察で勝手な意見を言ったり行動したりするのは、違うなぁと、思うのである。どれだけ間違っていると思うことを相手がしていても、どれだけ受け入れられない場面に置かれたとしても、なるべく否定をしないようにしたい、いつかそれらがわかる時が来るはずだから。

 

 

 

 


ここぞ、という時に成功できるよう、今はまだまだいっぱい、失敗しておこう。千手観音みたいに、沢山手を出して、色んな物事をキャッチできるように、しておこう。

 

 

 

 

 

 

世界の終わり

 

 

いっつも、お楽しみの前の夜は眠れない。

いつまでも小学生みたい。

幾つになっても、遠足の前夜みたいにワクワクしてしまう。

できればぐっすり眠って、明日の為のエネルギーを溜めに溜めて、そいで明日に思いっきり出し切りたいのだけれど。

 

 

眠れないから四年ぶりくらいに聴く曲を聴いてみて、真っ暗闇の中で、自分が今どこにいるのかちょっとわからなくなっている。四年前に戻れたら。四年前でなくても、あの時やあの時やあの時に、戻れたら。戻りたいのかな。そりゃあ戻れたほうがいいでしょうね。それでいつまでも、そこにいたい。

 


あ~~~、ひとりの夜はなんでいつでもセンチメンタルなんだろうね~~~。

 

 

 

 


時々とても不思議な感覚になる。

ここにいるのに、いないような、この世界と、またもうひとつの別の世界を行き来しているような、そんな感じがする。たぶん本当に、そういうことなんだろうとも思っている。人生は、私の生は、死も、全部この脳みその中にあって、この脳の中にしかなくて、だからきっと、どうにでもなるものなんだろう。

 

 

 

 

 

あっというまに

 

 

 

七月。

部屋のカレンダーは三月で止まっているし、掛け時計も十時三十四分で止まっているけれど、日に日に気温は上昇しているし、鳥の声から蝉の声に変わりつつある。

 


二十日ばかり早くやって来た梅雨は、律儀に二十日ばかり早く去って行った。梅雨というくせに雨もほとんど降らせず、雨が降っても雨が降らなくても文句を言われる梅雨。今年もお疲れ様でした。

 

 

 

実家の猫が、会う度に余所余所しくなっていく。昨日なんか、名前を呼んでも無視、頭を撫でてもスルー、一瞥すらくれない様子で、私は相当ヘコんだ。家の近くの駐車場でニャーニャー鳴いていたのを、腕や顔を引っ掻かれながら無理矢理我が家に連れてきた十三年前に想いを馳せる。奴はそんなことすっかり忘れているんだろう。まったく猫ってぇのは、薄情というか淡白というか、それがいいところでもあるんだけどねぇ、あたしゃ相当ヘコんでんのよ。

 

 

 

実家の周りは田んぼが多く、夏になると毎晩蛙が大量に鳴く。それが当たり前で育ったので、今の静かな夜はなんだか味気ない。そうしてひと晩この家で眠ると、なんとも言えない、ひっそりと深い幸せを感じるのである。

 


朝、四時前にはもう空が明るくなり始めていた。夏のそういうところが好き。朝だよ~!もう朝始めるよ~!早起きは三文の徳!ほれ三文と言わず五文も六文もあげちゃうよ~!起きろ起きろ~!起きなくてもいいけど勝手に朝始めちゃうよ~!今日もお天気だよ~!今日もいい一日にしちゃうよ~!ワッホ~イ!という雰囲気が、とても好き。

 

 

 

それにしても暑い。

暑いけれどたまに、気温が皮膚の温度とピタッと同じ温度になり、皮膚を夏の空気の中に溶かし出してしまうような、結局は暑いのだけど、「あ、溶けた」と感じて少しばかり心地よくなる瞬間がある。

 


夏の、他に物を言わせぬ陽の強さと、巻き込まれてしまいそうな空気の気怠さがなんとも言えない。う~~~ん、夏!やっぱりいいね、夏!

 

 

 

 

 

 

と、七月の頭に書いてそのままだった。

西日本での洪水被害の甚大さが日に日に明らかになってきて、ただただ恐ろしい。

行方のわからない家族の戻りを待っている人たち、遺体となって帰ってきた家族と再会した人たち、浸水して泥まみれになった家の中や道路を片付けている人たち、この事態に漬け込んで盗みや詐欺を働く人たち、色んな映像を、テレビの画面を通して毎日見ていて、表現の仕様がなく、胸が痛む。胸が痛むと言うのですら、申し訳ない様に思う。どうしてよいのかわからない。私にできることなど、想い祈ることしかできないんだろう。

 

 

 

タイでの洞窟に閉じ込められた少年たちのニュースも沢山見て、やっと全員が救出されたらしく、それはとてもよかったと思うけれど、こういうニュースを見る度に、先が不安になる。

 

 

 

飛行機に乗れば落ち、船に乗れば沈み、山に登れば土砂が崩れ、洞窟に入れば閉じ込められ、かと言って家でゆっくり過ごしていたら今度は洪水、もう何処にいても何をしても駄目なのでは、と思ってしまう。いつ自分が巻き込まれるのかもわからない不安と、何事もなく一生を終えられる確信がない不安と、とにかく不安だらけ。

 

 

 

 


歌丸さんの死が、今だに信じられない。衝撃的なニュースだった。

日曜の夕方と言えば笑点だった。ちびまる子ちゃんでもサザエさんでもなく、というか笑点の後には観ていたけれど、私にとって日曜の夕方に居間で家族と観るテレビと言えば、紛れもなく笑点だった。

 


歌丸さんの最後の頃の姿を見ると涙が出てくる。若い頃は知らないけれど、若い頃から華奢だったようだけれど、それでもいつのまにか八十一歳になっていて、いつのまにか腰も曲がり掛けていて、いつのまにか鼻にチューブを付け体は細く細くなっていて、それだけ月日を重ねたのだということを、ずしりと感じた。ミスター笑点、本当にミスター笑点だなぁと思う。

 

 

 

都会の緊張感と疲労感に満ちた静けさのある電車でなく、人気の少ない、穏やかに静かなこの田舎の電車が、とても心地よい。トンボが車内を飛び回っている。早くドアを見つけて出られるといいね。

 

 

 

 

 

 

ひとつ感情をまとめると、ホッとする。

さて次は、