六畳一間に

 

 

人が死んだ。

知人と言うには遠く、他人と言うには薄情な、そんな人が。

 

彼の事はよく知らない。

年齢も出身も、家族の有無も。

ただ、ついこの間まで、そこにいた。

 

特別な会話はしたことがない。

特別な思いを持ったことも勿論、ない。

だから、彼がいなくなった事実に対しては、東京で桜が満開になったと知った時と同じような感じを覚えるだけだった。

 

 

ただ、彼が一人ぽっちでいなくなったこと、そのまま数日間、本当に一人ぽっちで動かなかったことを思うと、可哀想とも恐ろしいとも違う、ただ、悲しさを感じるのである。

 

 

六畳一間の限られた空間で、先日雪が降ったばかりの冷たい部屋で、薄い壁の向こうから温かい声が聞こえてくる訳でもなく、スッと消えていったことを思うと、ただただ悲しいのである。

 

 

惨状は知らない。

人に見つけられた後のことも聞かない。

けれどあの小さな部屋の、あったかいはずの布団の中で、どんどん熱の引いていく過程を、冷め切った後の静けさを想像してしまうと、これまで感じたことのない、死に対する悲しさを、感じるのである。

 

 

幼い頃よく見舞いに行っていた大叔母が亡くなった時も、所属していたスポーツクラブの大好きだった監督が亡くなった時も、アルバイトしていた先の店長が亡くなった時も、親友のお姉さんが亡くなった時も、叔父が亡くなった時も、感じたことのない悲しみだった。

 

 

 

人はいつか死ぬ。

いくらこの先進した安全で清潔で裕福な国に居ても、頑丈な体と最低限の衣食住を持っていても、牢獄の中に閉じ込められた人が毎日決まった時間に食事を与えられ毎晩そこの看守が見回りに来たとしても、今日を生きられる保証はない。

そもそも人は、生きとし生けるものは、生まれた瞬間から死に向かって生きている、と、いう考えだってある。

とりわけ日本人は、むしろ死後の為に生きている節もある。自分がいなくなった後の子孫の為に、生前苦労と忍耐を繰り返し生きている。

 

 

生とは?死とは?

考えるほどぼやけてくる。

ただ、今の私には、死はただひたすらに怖い。冷たくて悲しい。そして寂しい。

だからその分、死を恐れる分、今生きていることに感謝と誇りを持って、尚生きて行こうと思う。生きるというよりも、生き抜くといった意気込みで。

 

今、これは、ミラクルなのだ。

容易なことでも当たり前のことでもなく、今、ここに生きていることは、正真正銘奇跡なのである。

 

 

あの事故から一年、あの豪雨から二年、震災から八年、あれから、それから、何年何十年、その度に私は、生や死のことを想う。そして迷う。

その沼にはまって出られなくなる時、いつもこの、自分の命のことを想う。

あれやこれや、わからなくなるから、ただ私は、私が今生きていることを、再確認する。そして明日も生き抜いてやると誓う。

誰の分とか誰の為とか、そんな生き方はできないけれど、とにかく私は生きるのである。

 

 

 

 

新たにまた生きる力を与えてくれた彼に

追悼

 

 

 

 

 

本は良い。

夜、休日の前、何も時間を気にせずに、飽きるまで、眠たくなって意識を手放すまで、読む本が、良い。

 

とりわけ紀行文は、良い。

単なるエッセイも、その著者の思考・性格がよく表れて面白いのだけれど、旅行記のような本となるとその面白さが何十倍にも増す。

 

 

本は、小説であれ自伝であれ何であれ、著者の人柄がよく出る、と、本をよく読み重ねるにつれ感じるようになった。

 

ユーモアのある人、感性の豊かな人、真面目な人、やんちゃな人、(勉学としての)頭の良い人、その頭の良さを見せたがる人、真っ直ぐな人、本当に様々な人がいる。

 

一体どんな道を歩いていたらそんな発想が落っこちているのかと、尾行して確かめたくなるくらい愉快な文書を書く、ユニークな感覚を持つ作家さんもいる。

 

はたまた、小難しい言葉ばかり並べて、自分の賢さをひけらかしたいのかとしか思えない文章を書く人もいる。話が全く頭に入ってこない。

 

物凄く腑に落ちる表現ばかりを使う人もいる。これは読み手(私)との相性でもあるけれど、言葉ひとつひとつ、文章ひとつひとつ、それらの組み合わせ、使われる位置、何を取ってもパーフェクト、公文だったら100の周りにおっきい花丸を書かれるほどに素晴らしい書き方をする人がいる。隣に寄り添ってくれるかのような文章。

 

あるいは、時折辞書を引かねばわからない言葉を細々と入れてくるけれど、それがとても自然な著者もいる。今、そういう人の本を読んでいる。

単なる小難しい興味の沸かない本と何が違うのか、と考えるけれど、恐らく今のこの人は、何の背伸びも見栄も無い、等身大の文章を書いているからなんだろうなぁと、思う。

 

だから私は今、必死に一々辞書を引き、その情景に思いを馳せ、質素というよりももっと貧相な生活を何故だか羨み憧れ、彼の思想・状況を少しでも汲み取れやしないかと、読み進めているのである。

 

 

いつまでもこんな時間を過ごしたい、と思うのだけれど、日常の、生きているのか死んでいるのかよくわからなくなるような生活の中に、ぽっと出来たこのような時間だからこそ、価値があるのだろう。

 

 

兎にも角にも、今のこの時間がとても幸せだ。

こういうものは、キュッと凝縮させて、真空パックして、冷凍保存して、いつまでも取っておきたい。

 

 

熟考

 

 

みんな、何かを抱えて、生きているんだなぁ。

と、ふと、思う。

 

消せない過ち、変えられない事実、戻れない過去、やり直せない日々、上書きできない物事やもう会えない人、そういうものたちを抱えて、隠して、忘れようとしたり、心の奥底に、何重にも鍵をかけて、しまっていたり、それらがふいに顔を出してきて、泥沼に突き落とされそうになったり、言葉にできぬ悲しみに暮れたり、世界に置いていかれたような寂しさ、身が二つに裂けてしまいそうなほどの後悔、すべての臓器を吐き出したくなるほどの怒り、全身が溶けていくかのような絶望感、脱力感、色んなものに襲われる。

 

みんな、そうなんだ。

 

 

見慣れたもの、よく知り尽くしたもの、そういうものは安心で安全で、心地よい。

けれどなんにも、刺激のない、惰性で寄り添っているだけのことがある。そういうものに、包まれて穏やかに過ごしている気がするだけで、そう思い込んでいて、本当は足を掴まれて動けないでいたり、する。

 

新しいものは、怖くて、不安で、心許ない。

だけど私をいくらでも、どこまでも、許し、解放してくれる。なにもかもを、広げてくれる。

 

 

 

決断というのは、難しいことではない。

難しいのは、決断の前の熟考である。

と、徳川家康は言ったそうだ。

 

 

いつ、どの場面で、どういう選択をするのか、それはとっても難しい。

私はね、穏やかで、小さな幸せが毎日近くにあって、そういうものをちゃんと見つけられて、大切なものをちゃんと大切にできて、ありがたいことをありがたいと芯から感じて、がははじゃなくていい、ふふふって、笑っていられる、そういう日々が欲しいだけなんだ。

 

 

よく考えねば。

 

 

 

 

我思う、故に我在り

 

 

どの島がどの国のものだとか、この絵はあの人の絵だとか偽物だとか、世の女の子たちはチーズ料理に夢中だとか、株価が暴落しただとか、よその大統領の言っていることとか、そんなこと私にはわけわからないよ。

 

相次ぐ地震も、教師の暴行や生徒同士のいじめや、親子間の殺害も、脱税問題も国会議員の言い間違えも、虚偽も隠蔽も、もううんざりだ。

 

 

なんとなーく、心がモソモソする。

 

休みの日、大好きな人たちと会って、ゆっくり家で眠って、部屋のものをごっそり片付けて、愛おしい猫と触れ合って、お笑い番組を観て、お酒を飲んで、好きな歌を口ずさんで、音楽を聴いて、色々と、好きなものに触れたのだけど、なんだか、満たされないような、心がザワザワするような、感じがしている。

 

こんな日もあるよなーと、今はとりあえず開き直っているけれど、今だにこういう感情の落差に一喜一憂して、たまに処理できないことがある。

 

 

冬にももう堪えかねる、でももう花粉が飛んでいる、花見をしたかと思えば夏が来る、暑さにも参って飽き飽きすれば、おしとやかに秋がやって来て、あっというまにまた冬。ずーっとずーっとその繰り返しだけれど、生きているだけで儲けものだ。本当に、素晴らしいこと

 

 

働きたくないし、とりわけ冬は外に出たくない、大好きな人たちにさえどうにも会いたくない時もある、やりたいことは沢山あるのになんとも動けない時もある、そういうことにうんざりすることもある、落ち込んで不貞腐れて眠り込むこともある、朝になればすっからかん、そういうことの繰り返し。それでいいじゃない。なんにもがんばらなくていい。息をすること。生きること。それでいいじゃない。私が今ここに、いること。それでいいじゃないの。

 

 

 

 

今日

 

 

今日。

今日はとってもいい一日だった。

 

血液が、血管を震わせて、手の指先まで波打つ感覚。

 

親しい人が、自分をわかってくれているこの瞬間。

 

目に見えたものを通り越して、愛しく思える存在のあること。

 

 

何十億もある命、意識、細胞の中で、私が今ここに生きているということ。

 

 

 

ありがたく、そして尊い

この命燃え尽きて灰すらも地に還り無くなったとて、生き抜いてやると、思い誓った、今日。

 

 

 

12月31日

 

 

 

12月。

あっというまに12月かと思ったら、あっというまに冬至、あっというまにクリスマスであっというまに年越し、そんでもってあっという間に春が来てあっという間に夏休み、あっという間に食欲の秋であっという間にまた雪が降るんだろう。あぁなんて早いこと。

 


今年は本当に、バタバタだった。頭の中が。

おんなじことをぐるぐるグルグル、ずっと考えていて、沢山悩んで沢山迷って、ちょいと進んだかと思えばズンと退がってしまって、それでも結果としては、辛うじて海面から顔を出せたというかんじ。

精神的に結構辛くて、その辛さをどう乗り越えようかばかりを模索していた。無意味な日々も沢山あった。見て見ぬふりをしてみたり、究極の楽観主義に徹してみたり、喝を入れてみたり自棄になってみたり、色々試した結果、去年までに比べてうんと、強くなったと思う。「強い」というのはもの凄く抽象的だけれど、でもたしかに、強くなった。

 

 

 

来年は、今まで脳の中だけで忙しなく動いていたのを、ババンッと外に飛び出て、目に見えた行動に移そうと思う。考え方も少し変えたい。簡単に変えられるものではないけれど、今ならできるような気がしている。善は急げだ。

 

 

 

 


時折麻薬のように気分がハイになって、「私の目の前には明るい未来しかないわ!」と思う時や、逆にもう無理だ、もう何も見えない、何もできない、動けない、と泥沼の闇に吸い込まれてしまうような時とが、ある。どちらも怖い。ただ、今が丁度そういう時期なんだろうと思う。

なかなか操縦するのは難しいけれど、私の中にもう一人私を飼って、というよりもう一人に飼われるようになるのだろうか、ガンダムの中に人が入って操縦するみたいなかんじで(よく知らないけれど)、そうやって、自分で自分をうまく飼い慣らせるようになりたい。ならねば。

 

 

 

さ~て、来年が楽しみだな!

同じ一直線に、12月31日と、1月1日とが続いているのに、年が変わるというだけで、気持ちがリセットされる。有り難くリセットしよっと!

 

 

 

セルフ・コンフィデンス

 

 

 

思えば、小さい頃から自分に自信を持ったことがなかった。

 


一瞬の、ちっぽけなものならあっても、容姿、性格、知能、身体能力、特技、その他自分を取り巻いているものにまで、何か胸を張って人に自慢できるようなものが、なかった。

 

 

 

日本人らしいと言えばそうなのかもしれない。恥の文化、謙虚な姿勢、よく言えばザ・日本人ということなのかもしれない。

 

 

 

けれどそれって、物凄く残念。

自己主張の激しい人はあまり好きでないし、自信家すぎる人も得意ではない。

 


ただ、外に出すでもなく、自分の内に秘めておくだけの、秘める必要もないのか、自分で満足できればそれだけでよい、そういう自信は絶対的に必要だ。と、この歳にしてやっと気が付いて、あぁこれまでなんていう生き方をしてきたんだろうと、ちと悲しくなる。

 

 

 

過信するのもよくないけれど、うまい具合に、自分を認めて、自分に自信をつけて、自分を好きになれたらよいなぁ。素敵な人生を送りたい。誰がどう思おうと、私の人生サイコーハッピーサンキューサンキュー!ってかんじの、素晴らしい人生。

 

 

 

 

 

 

今日は天気が良くてよかった。

いつにも増して鳥がピヨピヨうるさい。

元気なことはいいことだ。

 

 

 

 

 

 

明日に向けて、今日も生きるぞー