君は幸せ者

 

 

部屋で一人、好き勝手お酒を飲んでいる時、至極だと思うことがある。

 

好きな映画を観て、好きな音楽を聴いて、好きな本を読んで、今日のことも明日のことも考えずに、好きな旅人の一節みたいに、今を旅している時、これが極楽だと思う。

 

 

テレビを見ていて、自分の腹を痛めて産んだ子供を虐待、最悪の場合殺している親や、不可解な交通事故、自然の恐ろしさ、人間の精神的な弱さや身体的な弱さ、色んなものを見て、悲しくなる。

 

それでも、自分はツイていると思う。

今、生きているから。

生き残っているから。

 

自分の意思と、この命と、別の部屋にある気がする。

運だけでも上手くはいかないけれど、それでも、なんであれ、今、今日、生きていることは、とても幸運なことだと思う。

 

 

死ぬことはいつだってできる。

死ぬ権利は、自分自身が死ぬ権利は、唯一自分にあると思う。

それまでは、運に任せても、気で乗り切っても、なんでも、生き抜こう。

 

 

私は今、とってもハッピーだ。

 

 

 

イキガミ

 

 

NHKかなんかの、不登校の高校生くらいの子達の、ドキュメンタリーを観ている。

 

各々、何らかのきっかけで学校に行けなくなって、枠から外れてしまって、戻りたいと思っていても戻れなくて、そして共通して意識は死に向かっている。

 

 

あぁわかるなぁ。

よぉくわかるよぉ、と思いながら、(ちょいと酔っ払いながら、)見守っている。

 

 

日本は特に、そういう国なのかもしれない。

一律性、大衆、マジョリティ、皆と同じである事が正しい事で、そこから一歩外に出てしまうと、悪者になりかねない。

そういう境目で迷ってしまうと、この日本で生きていくには生き辛くなってしまう。

 

 

私は少し大人になって、彼らの悩みを見ていると、「大丈夫だよ、皆と同じでなくていいんだよ、むしろあなたはとっても素敵だよ」と、言いたくなってくる。そんなこと言われてもうまく生きられない彼らの気持ちもよぉくわかる。

 

 

私も今だに、実は、死に向かいながら生きているんだ。

死なないように、死にたいと思わないように、時折自分を誤魔化しながら、生きている。

これが正しいのかはよくわからないし、前より色んな事をぼやかすようになったし、何が一番なのか、やっぱりわからない。

 

 

人混みの中にいると、自分がここに存在しているのかわからなくなることがある。それで、透明人間になったつもりで闊歩してみると、とても清々しかったりする。

 

生きるのに価値などなくてもいいと思う。けれど価値を最重視するようなこの場所では、とても生きにくい。

 

 

大人になった私は別として、未成年の子たちなんか絶対に、周囲の大人の援護が絶対的に、必要だ。彼らなんて、産まれたての子鹿みたいなもんだから。いくら大人びている子だってなんだって、子鹿は自力で足を震わせながら立ち上がるだなんだと言われたって、うるせぇなんであったって、そうなのだ。

 

 

立派な大人になりたい。

地位も名誉も金も、要らない。

あれば力になるけれど、それらがなくとも、ない場所で、立派になりたい。

今までは守られる側で生きてきたけれど、これから少しずつ、守れる立場で生きていきたい。

 

なんだか初めて、そんなこと思ったかもしれないなぁ。(酔っ払いも含む)

 

 

 

 

 

即身仏

 

 

というものを知った。

前にも聞いたことのあったような気もするけれど、何にでもタイミングというものがあるなぁと改めて思う。

 

気になってインターネットでササッと調べて事実かどうかの確認もせず鵜呑みにした情報(調べものをする時の文章を読む行為があまり得意でない)かつ概要だけを把握して自己解釈したものなので、正しくはわからないけれど、とにかくその即身仏という存在が、言葉にできぬ凄みを持っているのである。

 

 

簡単に言うと、お坊さんが、世の安泰の為に、あるいは自身の死後の為に?、最後の最後まで読経しながら亡くなっていく、その亡くなったお坊さんを即身仏というらしいのだけれど、その最後に向けた修行というのか?それが凄まじいのだ。

 

まず、通常の食事から徐々に量や種類を減らしていき、体から余分なもの(脂肪など)を落としていき、そのうち摂取するのは塩と水のみになり、いよいよ終盤に向かう頃になると、地下に作られた、座禅を組める範囲のみの、もはや棺のような所へ閉じこもり、水と空気のみを送る筒だけが通され、あとはそこでひたすら、読経をするのだそうだ。

 

毎日決まった時間に鈴を鳴らし、地上の者はその音で生存を確認する。音が鳴らなくなると亡くなったと見なされ、一旦地上に出された後、(何らかの処置を施して)また、地下に戻されるのだとかなんだとか。

それからまたおよそ三年、地下から引き上げられた時に、ミイラの状態になっていればめでたく(?)即身仏と呼ばれるらしい。(人間の形を留めず朽ち果ててしまったものは、無縁仏として供養されるのだとか)

ミイラが予め脳味噌や内臓を取り出され薬剤で防腐処理をされるのに対して、即身仏は時間をかけて自然に乾燥していくので、実際この二つは別物とされているらしい。

 

 

インターネット上で実際の即身仏の写真もいくつか見たけれど、不思議なことに、これまで見たことのあるミイラとは違って「怖い」「不気味」といった感情が湧かなかった。威厳や、尊さというものを、先ず感じたのだと思う。

 

 

 

私の人生からしたら到底考えられない行為、仕組みであって、調べた時には本当に衝撃だった。

 

どんな世にも人の為に命を削っている人がいて、精神の奥底から平和を祈っている人がいて、あぁ素晴らしいなぁでは片付けられない。片付けてはいけない、と思う。

 

 

皆、平和を願っているはずだ。

痛み、悲しみ、苦しみ、争い、差別、事件、そういったものを心の底から望んでいる人などいないはずなのだ。そんなことは誰だって知っている。

それでも、弱い生き物だから、平和よりも先ず自分が大事だから、そういう時、正当防衛的な矛盾が生まれて、少し歪みながらも正常に世界は動く。

 

 

何の事を言っているのか、自分でもわからなくなってきたけれど。

 

 

毎日みんな、色々な悩みを隠し持って、強みを盾にして、頑張って生きているなぁと思ったこと。

たぶん連結していないけれど、今日一日であれこれ考えて考え着いた先が、そういうことだった。

 

 

 

明日も精一杯、生きよう。

 

 

 

 

なんだかうまくいかない。

これまでもずっと、何かが上手くいったことは、なかった、と言えばなかった。

 

だから普通。

私のこの生活には、これが普通。

わかっていても、気は沈む。

 

 

木の葉みたいに、太陽を目一杯浴びて、二酸化炭素を吸って、酸素を吐き出すみたいに、嫌な事を全部吸収して、よいことに変えられたらいいのにねぇ。

 

 

ずっと、映画を観ているような、そんな日々を送れたらいいのになぁと、今日、映画館にいて思った。

映画を観ている時の、自分を忘れ去る感覚、忘れている事すら忘れているあの空間、心地よさ、ここだけでいいなぁ

 

 

毎日悲しいニュースを見て、怒りや苦しさを覚えて、人とすれ違って、虚しくなって、意味もなくゼロから振り返って、気が抜けて、色んな事に意味が見出せなくなっていって、それでも時折温かいものに触れて明日が楽しみになって、勇気と希望が持て、そんなことの繰り返し。

 

 

あぁモヤモヤする。

全部ゴッチャまぜにして、ギュウギュウに丸めて、ガシャガシャに振って、それで海にでも空にでも、放り投げてしまいたい。

 

 

心臓

 

 

近頃ずっと、よくない夢ばかり見る。

夢占いによれば悪い意味ではないようだけど、にしたって寝起きが良くないんだもん、いいわけはない。

 

苦手な事を苦手と意識し過ぎて、ずっとずっと囚われている感じ。寝ている時までやめてくれ〜、と思う。

 

 

普段、何も考えないように生活しているけれど、時折その意識が切れて、その一瞬の隙間からダババ〜ッと色んな物事が入ってきて、ウワァ〜〜〜、と、なる。気分の高低差が激し過ぎて、高山病になりそう。酸素代わりに、本を読む。本はいい。避難所のようであり、保健室のようであり、泉であり、要塞である。

 

 

時々、んなことあるかい!ということで物凄く落ち込む。端から見たら、膝下程しかない川で溺れているかのよう、でも私の中では完全に溺れている。(と思っている)

 

 

いつか、あらゆる人、関わりのある、かつ大切な人たち、すべてに、見放されるだろうな、と思っている。

自分でも嫌な奴だな、と本当に思う。

 

 

人生一度きり、と思う時と、46億年の内の80年(生きられるは知らないけど)、と思う時と、ある。希望と絶望の振れ幅が大きい。

ただ共通して言えることは、どちらにしたって、自分の思うように生きりゃあええやんけぇ〜、なぁ〜、と、いうこと。

 

 

 

はー!なんだか書いても気分は晴れないけど、まー、こんな日もあるよなー!

 

 

小雨の夜に

 

小雨が降っている。

 

 

ちょっとした知り合いと軽くお酒を飲みに行った。

「今日は夜から雨だそうですよ。」と彼女が言う。

夜というのが5時なのか6時なのか、それとも10時なのか深夜なのか、確認をしておいてもよかったなと思う。


21時前、最寄りの駅に着く。

車窓から見た様子だと、雨は降っていない。


やはり晴れ女だ。

そうだ、本屋へ寄ろう。

私はそう思い、15分の道のりを、傘無しで歩くことにした。

 

 

外へ出ると小雨が降っている。

だが小雨というのは、私の中では雨の内に入らない。(だから当然私の概念上の晴れ率が上がる)

これは大丈夫だ、と歩き出す。

 

しかしどうだ、微かにではあるが確かに、少しずつ雨の量が増えていくではないか。

顔と腕しか外に出ていない肌にも徐々に水滴が感じられ、おやっと思うがまだ動じない。

 

なぜなら私は晴れ女だからだ。

雨季の先月一ヶ月の旅行中、雨が降ったのはたったの二度切りだったではないか。(それもたった束の間)

朝から晩まで降水確率100パーセントの中、晴れ間さえ見える空の下で動物園に行ったこともあったではないか。

そうだ、恐れることはない、私は晴れ女なのである。

 

 

しかしながら私の自信がどんどん漲っていくのと張り合うかのように、雨はどんどん大降りになっていく。

 

 

 

(自信過剰もよくないかな)

 


という思いが増すのに伴い、私の歩幅も大きくなっていく。自然というものは全く薄情だ。

 

私は走った。

灯りの少ない、雨宿りの屋根などない、まっすぐな一本道を、ただひたすらに走った。向かいからくる車のライトはこちらに一瞥を投げるも、皆一様に、無情に通り過ぎて行く。

 

たった1.5キロメートルの道のりが永遠に思える。

 

 

走れ、走れメロス

そうだ、メロスもこんな気持ちだったに違いない。

走れ、走るんだ。

 

 

 

 

そうして私は、恐らく記憶の上では小学生ぶりに、全身に大雨を浴びながら、目的の本屋へと辿り着いたのである。

 

 

 

 


と、併設しているカフェで休み休み書いている間に服も乾いた。さて、本を見に行こう。

 

 

世の人は我を何とも言わば言え我が為す事は我のみぞ知る

 

 

太陽の力は凄い。

と、先日まじまじと感じた。


雨は嫌いではないけれど、外に出かけるとなるとやっぱり晴れていてほしい。そして晴れていると生命力というものがみるみる湧いてくるのを全身に感じる。それがとても嬉しい。

 

 

 

一人の時間はよい。

(いつもいつも一人だと、たぶん寂しくて仕方なくなってしまうんだろうな。)

朝から晩まで働いて、空いている時間を上手く使えず、休日は疲れ果てて出掛ける気にもなれず、予定が入っても重い腰を上げて行くような、そんな生活をしばらく送った気がする。

一人で余裕を持って、ゆっくり考える暇などなかった。いかに窮屈な場所に居たかを痛感している。

 

 

 

普段の場所から全く知らない場所へ出てくると、自分を見返すよい機会が出来る。

普段私を縛り付けていたものを一斉に解いて、やりたい事だけをし、自分の判断のみに従って過ごす。

化粧をせず、衣服にも気を遣わず、野菜を食べなきゃなどとも考えず、周りに合わせたり周りの目を気にしたりもせず、日本人特有の曖昧な返事もせず、イエスならイエス、ノーならノー、愛想笑いもせず、気が向いたら出かけ疲れたら休む。

 

ずっとこんな生活は、金銭的にも精神的にもしていられないけれど、あのキチキチでピーンと突っ張って生き苦しい国から一歩、偶にでいいので出ると、とても清々しい。今なら空も飛べるはず。中学生の時音楽の授業で歌ったなぁ。何年か前にはライブも観に行き、草野マサムネさんの透き通った美し過ぎる声に、恐ろしいほど感動した記憶も蘇る。スピッツ、そうスピッツ、今一分ほど記憶が飛んでしまってね、空を飛ぶのは私じゃなくてスピッツだった、みたいなね、えっ?

 

 

 

 


よいことと、よくないことの比率は、やはりトントンにあるのだろうなと、今日また思う。

天は誰かに二物以上を与える分、試練もまた同じ分量で与えているのだろう、と。

良いものと良くないものを足し引きすると、結局、天は二物を与えていなくて、この諺を生み出した人はちゃんとそこまで考えていたのだと思うと、凄いなぁ。

 

私には秀でたものが何も無い分、地獄も無い。つまらない人生だなぁと思うこともあるけれど、本当は一番幸せなのかもしれない。平凡がいかによいことか、初めてしっかりと認識した。

 

 


そして人生は本当に一度切りなのだと、思う。

天国や地獄、輪廻転生、そういうものはあるのかもしれないけれど、今この時代にこの人間、私として生きられるのは、どうやったって一度切りなのだと、この一秒ももう戻っては来ないのだと、ひしひしと感じる。同じ事を同じ様に繰り返しても、絶対に同じにはならない。

ならばその たった一度のこの人生 天上天下 唯我独尊 咲いて散るのが華ならば 散らせてみせよう美しく       夜露死苦

と、ヤンキーが着てる長いジャケットみたいな、生き方をしてやろうではないか!と思うのである。ていうか「夜露死苦」って漢字のセンス悪過ぎない?けどいかにも“中学生の知り得る中で一番悪い漢字”ってかんじで微笑ましくない???

 

 

 

 

 

一人で海外旅行に行くと言うと、色んな人から心配される。今回は偶々テロやデモが起こったばかりの国々だったので(親日で安全な国だけれど)、仕方がない。


ただ、私は思うのである。

随分前にも書いたけれど、どこに居たって死ぬ時は死ぬし、生き延びる時は生き延びるのである。


勿論、論理的だか科学的だか統計学的だか何学的だか知らないけど、紛争の多い国や災害の多い地域に行ったらそりゃあ危ないだろう、けれどそういうことでなくって、じゃあどういうことかというともうこれ以上は勘弁してってかんじなんだけど、自分の家の中で何事もなく安全に暮らしていたって、百パーセント安全なわけではないということ、いつ災害が起こっていつ強盗がやってきていつ隕石が落っこちてきていつ命が途切れるかはわからないということ、そんなかんじのことである。


そういう、いつどこで何が起こるかなんて誰にもわかりゃしないのだから、得体も知れぬ死にビクビク怯えて家の中でうずくまるより、イェーーーイ!人生最高!ご飯美味しい!空綺麗!イェーーーイ!と、外へ飛び出したほうが10000000億倍、いいに決まっている。(と、私は思うのでこれからも続ける。そう思わない人はただ考え方が異なるだけであって、どちらも間違っていない。要は自分が正しいと思う道を、一番心地よいやり方で生きればオッケー、最高ハッピー、ということ)

 

 

よく、旅は「自分探しの為」「自分を変える為」だと言う人がいるし、それに対する嘲笑的な意見もよく聞く。

どっちでもいいけれど、私も、自分とは本来どういう人間なのか知りたいし(知らない人、言葉、文化、等に囲まれた場所でこそ本来の自分が現れると思っている)、色んな知識や経験を得て柔軟な人間になりたい。それからコンプレックスを克服したい。勿論それ以前に、純粋にその土地に興味があって、行ってみたいと思うから出掛けるのだけれど…

私はとにかく度胸が無い。ここ最近つくづくそう痛感し、気付く度自分に対してイライラしてしまう。お前は一体何をグズグズしとんじゃあ!ワレェ!いつまでウジウジしとんじゃあ!ワレェ!串もんは二度づけ禁止なんじゃあ!ワレェ!というかんじ。

だから言葉も文化も異なる所へ自らをほっぽり出して、自分の性格や行動傾向を確認して、どういう時だと臆病になるのか、どういう時なら大丈夫なのか、じゃあこうすれば改善できるのでは、ということをせねばいけないのである。半ば義務的に。(とは言っても依然ビビりなので、全く言葉も通じない、食や生活環境も180度違う、ような国へはまだ行けない。)

そしてコンプレックスが酷い。どうしてこうなってしまったのか自分でもわからないくらい酷い。今ではだいぶマシになったものの、時折スコールみたいにやってくる。コンプレックスというのは人との関わりの中で生まれるし、その人と密な関係であればあるほど、色濃く浮き出てくる、そこで一旦根本から全く違う人々のいる場所へ行ったら、人がいかに多種多様で、良し悪しのポイントも各々で、満場一致の正しさなどどこにもないということを、身をもって確認できたり、そしてそれを自分の意識の奥深くにねじ込めたりするのではないかといつも、期待するのである。

 


ただ、結局は、何も変わらない。旅は私を何とも変えてはくれないし、コンプレックスはひとつも消えない。しかしながら変わらずとも消えずとも、太刀打ちできる方法はあるのだと、よ〜うやく、わかった。は〜、長かった。苦しかった。何かが変わるかどうかは、自分が一歩動けるか、物理的にも一歩、精神的にも一歩、今居るところからズレてみて、見る方向も変えてみて、ダメならもう一歩動いてみて、が、できるかどうか、ただそれだけなのだった。や〜、めでたい。ありがたい。蟻が10匹アリガトウ、千が9個でセンキュー、ダンケがシェーンでダンケシェーン、もうなんでもバッチコイってかんじ!今日も生きててよかったー!

 

 

 

と、旅について初めて真面目に考えた。気がする。

 

 

 


「世界には絶対に正しいことなどない」

「自分が面白そうだなと思ったことにただ一歩を踏み出す。うまくいく時もあれば、いかない時もある。それだけのことだ。」

旅のお供に持って行った本の著者も、そんなことを言っていた。こういう言葉に何度、背中を押されていることか。

 

 

 

さてまた、鳥籠へ戻らねばいけない。

またしばらくは大人しく、ピヨピヨと生活しなければいけないな。

よいのである。よくはないけれど、今、ひとつ、軸が一本植わったので、なんでもよいのである。

どこにいて何をしていても、大丈夫なのである。と、言い聞かせて、またこれから、精一杯生きていこうではないか。

 

 

 


長!