春は花

 

 

寒い。最近寒いぞ。

一週間前のほうが暖かくなかったか?

そのくせ突然夏になるんだ、毎年。

 

連日コロナのニュースばかり。

どこの番組も大体同じことを言っているし、見れば見るほど悲しくなってくるので、私はほとんどテレビを見ない。10万円が貰えることは把握している(早くくれ)。たまに子どもチャンネルは見る。子どもは本当に可愛い。癒しだ。

 

 

十年くらい前にやっていたテレビドラマを思い出す。ほとんど内容は覚えていないけれど、秘密組織によって造られたウイルスが全世界に広まって沢山の人が血を吐いて死ぬ、というような話だった。見ていた当時も恐ろしかったし、今思い出してもゾッとする。

 

今のこの世界の状況が、まさにそんな感じなんだ。ゾッとする。得体の知れないものが、目に見えないところでどんどん拡大していって、「ちょっとお買い物に♪」みたいなラフさでサラッと人を殺していく。

 

 

そして世界全体が途轍も無く暗い。

未知のウイルスに対抗する術はほぼ無く、人々の動きが止まる、景気が悪くなる、仕事が出来なくなる、生活が出来なくなる、十分な手当もない、地球全体から生命力というものが蒸発して消えていくように感じる。感染者が、その最愛の人たちが、その人たちを救おうとする人たちが、どんどんどんどん辛い状況に立たされていく。そしてそれは他人事ではない。

 

私としては東日本大震災の日がまたやって来て、翌朝には家の愛猫が死んでしまって、あぁ猫のことを思い出すと涙が出る、その辺りからずっと気分がどんどんと落ち込んでいって、一体どこまで下っていけば行き止まるんだろう。

 

この極夜みたいな現状の中で前向きに生きていくのはとっても難しい。それでも何とか世の中を明るくしようと、試行錯誤して前向きに生きようとしている人、周りを励まそうとしている人、そして命の危機に晒されながら懸命に活動をしている人たちがいる。素晴らしいし、頭が上がらない。

 

 

でもやっぱりこんな時こそ、こんな時だからこそ、いや、こんな時でなくたって心がどんよりとして、それが良くないことだと感じている時は、良いことにもっと目を向けて、楽しい事をもっと考えて、今の時代外に出なくなって結構な事ができるんだもの凄いよね、大切な人と直接会えなくたって連絡も取れる、テレビを見たり音楽を聴いたり色んな情報も得られる、ゲームをしたって本を読んだって歌を歌ったっていい、俳句を詠んでみたり超能力を鍛えてみたって楽しそう。そういう中からちょっとでも幸福を探し出して、笑える事を見つけて、束の間でも苦しさを剥ぎ取って、穏やかに過ごしたい。

 

贅沢過ぎるんだ、裕福過ぎて傲慢なんだ、私たちは。

 

 

3.11の時だって今だって、辛い状況に漬け込んで酷い事を企む人がいる。強盗、詐欺、誹謗中傷、誰だって自分が一番可愛い。一番大切だ。自分か他人かどちらかが死ななければなかったら、他人を蹴落とすだろう。勿論命の危機に晒されたら、自分の命を最優先にすべきだと思う。けれど、そういう時でない時に、他人の不遇や弱さに漬け込んで、他人の傷を生きる糧にしてしまうのは、そうじゃあないよね、自分が苦しい時に、自分よりも苦しんでいる人や下にいる人(本当は、人に優劣などない)をわざわざ探し出して、崖の淵で辛うじて休んでいる人を海の底に突き落とすみたいなこと、それを見て満足してしまうような心、そうじゃあないよね、本当は皆が幸せなのが一番いいよね、なんていう綺麗事は通用しないのかもしれないけれど、でも私は毎日悲しい。人様の事を言えたもんじゃないけど、でも、少しでも余裕があれば、時間に、お金に、心に、ちょっとでもスペースがあったら、どんなに小さくてもいい、ひとつ誰かに優しくできたら、優しくしてもらった人は、そのまた半分でもいい、誰かに優しくしてあげられたら、えっ?、私はおとぎの国の住人ですか?、私だって全く素晴らしい人間ではないし、よくないこともしてきたし、今だって決して十分と言える生活をしていないけれど、私は、今日も生きていることにまず、ホッとしている。死んだほうがマシだという人も結構な数いるんだろう、私だって本気で死にたいと思ったことも、死のうとしたこともある、でもね、それは過去の話で、今だにそう思わないことはないけど、それでも、毎日、あぁ今日生きていてよかった、と思うんだよね、そう思える日まで死なないどいてよかったなと思うんだよね、というかね、ハードルが高すぎるんだよね、特にこの国は、他所の国は知らないけど、ただ生きてるだけでいいじゃない、大きな家なんてなくたって、高価なバッグや服なんて持ってなくたって、お給料が低くたって、友達が少なくたって、他人にひけらかせるものがなくたって、いいじゃないの、自分の命と、自分の好きなものがあれば、特にこんな状況でなんて、贅沢な人ほど、命そのものの価値をどんどん忘れていってしまうのかな。私もだいぶ贅沢しているけれど。でも毎日、眠る前に、嫌なことがあっても、悲しくっても、「でも今日も生きたじゃん。よかったじゃん。」って思うんだよ、何熱く語ってんだよってかんじ?いいんだよ生きてるんだもん。

 

 

勢い余って二千字くらい書いていて、結局何が言いたいの?

 

生きていることが素晴らしいんです。

みんな胸張って!

「そんなことくらいで、」なんて言ったらいけないよ!何故なら命が何よりも大事だから!わからない奴にはあと100回言うよ!言わないけど!(疲れちゃうから😩)

 

あとちょっと余裕がある時には、人に親切したいね〜〜〜!(動植物、地球環境、物などにでも可!素晴らしい!)

 

 

 

セロリと食リポ

 

 

「〇〇ちゃんは、セロリ。」

これは小学生の頃あまり仲の良くなかった(というか一方的に嫌われていたので私も嫌いだった)友達に言われた言葉で、〇〇ちゃんとは私の事なのだが、どういうことかというと、セロリ=その子が嫌いな野菜=私の事が嫌い、ということであって、私はその意味を別の友達づてに聞いて知った。今考えれば小学生らしい可愛らしい例えにも思えるけれど、当時は結構ショックを受けたもので、今だに思い出すと少し悲しくなる。

 

しかしながらセロリなんて日常生活であまり関わらないので、その過去を思い出すことも少ない。何故なら私もセロリが好きでないから。その事実もまた、過去の悲しみを倍増させるのだ…

 

ところが先日、一日に三回もセロリに遭遇することがあった。

 

一度目は野菜スムージーを飲んでいた時。

13種くらいの野菜が入っているらしいのだが、どうもクセのある味がする。それから原材料を確認してやっと、セロリが入っていると気付いた。13種も入っている上にシロップも入った甘々スムージーだったのに、セロリの威圧感がとにかく凄い。

 

二度目はなんだっただろうか。忘れてしまったけど、テレビで見たような気がする。

 

そして三度目も、テレビで。

10歳でプロの野菜ソムリエ?とやらになった少年が、番組で美味しい(らしい)セロリを紹介していた。(勘弁してくれよ…と思ってそこからは見ていない)

 

 

そういうことってよくある。

たぶん、本当はもしかすると毎日、どこかでセロリと関わっているんだと思う。ただ、セロリを見かけた時にたまたまその過去を思い出してしまった為に(セロリを見て毎回思い出す訳ではない)(と思う)(思い出していないかは思い出していなかったらわからないので…)、セロリに対して敏感になって、意識的にセロリに反応してしまうことによって、なんか今日セロリいっぱい見るなぁ…と思う訳なんだ。そうなんだ。

セロリ以外にもこういう体験がよくあるから、きっとそうなんだ。

 

 

私は今だに、その子が嫌いだ。(このこと以外にも色々あったので。)ただ、当時のその子を、であって、今の彼女が嫌いなのではない。(大人になってから会った彼女は、ちゃんと大人で、愉快で、むしろ好印象であった)

 

誰だってそうなんだろう。(たぶん)

好きな人を嫌いになったり、嫌いだったものを好きになっても、その当時のその気持ちは、覆せない。それでいいのだと思う。でも時々思い出は、重いでぇ〜

 

なんつって…

 

背負い切れなくて、投げ捨てたくなる時もあるよね。

 

 

でもね、私は気付いてしまったんだよ。

スムージーを飲んだ時のあの威圧感、私は正直狼狽えた。そして感銘を受けた。どうしてお前は他の12の野菜を全て消し去る程の力を持っているのか、どうしてそんなに強大な存在感を身に纏っているのだ、と。

 

そこで私はハッとしたんだ。いいじゃない、セロリっていいじゃない、お前もセロリでいいじゃない、むしろセロリがいいじゃない、どんなに人混みに紛れても決して埋もれない、セロリのように生きたらいいじゃない、とねぇ…(しみじみ…)

そしてついに、過去の自分は報われた。

 

 

 

…なんの話?

セロリの話です。

 

 

 

 

話は変わるけれど、私は長年の悩みをどうにかしたい。

それは、「おいしい」に感情を込められないことだ。

グルメリポーターみたいに、あそこまで大袈裟にやりたいわけではないけれど、あそこまでできるのも羨ましく思うし、私の友人にも何人か、実に美味しそうに食事をする人がいる。一緒に食べていて幸せな気持ちになるし、何より本人がとっても幸せそうだ。

 

「ん〜!おいし〜い!」

私はなぜかこの一言が言えない。

 

普段の接客業では、どう見たってお前が悪いだろ客だからって偉そうにすんなお客様は確かに神様かもしれないけれどお前のそれは神様でなくて王様だそして私たちはお前の奴隷ではないさっさと帰れ二度と来んな、と思うようなお客相手には「お客様!大っっっ変申し訳ございませんっっっ(非常に申し訳なさそうな顔)(90度のお辞儀)(5秒静止)」が出来るのに、どうして「ん〜!おいし〜い!」は言えないのだろうか。

 

私だって、美味しいものと美味しくないものの区別はするし、心の中では劇団四季並みの表現力で食事をしている。でも、それをうまく外に出せないのだ。それでいつも誰かと食事をする時は、しかもそれがそのご飯自体が目当ての食事の時などは、いつも食リポに悩まされるのである。

 

 

 

悩みは尽きないが、私はこれからセロリなる人生を過ごし、そしていつか必ず、セロリを口一杯に頬張り、満面の笑みで「美味しい!」と叫ぶのである…

 

 

 

 

〜 続く 〜 (続くの?)

 

 

 

 

 

 

私は働きたくないのだ

 

 

最近なんだかずっと眠たい。

朝は勿論眠たい。起き上がってからも勿論眠たい。昼も眠たい。夕方も眠たいし、夜は当然眠たいに決まってるだろ。

 

 

…妖怪か!(何が)

 

 

眠たいと頭は働かず体も鈍く、気分も晴れない。あーなんだ、なんなんだこれは、と、ここ1〜2週間悩んでいたんだけれど、遂に今日、解決したのである。

 

 

そう、春なのである。

春眠暁を覚えずなのである!!!

 

学生時代にも同じシチュエーションがあって(というか思えば毎年そう)、その時友人がさらりと「春眠暁を覚えずだね〜」と言ってくれてね、その時私は「ああそういうことなのか!」と大いに感動したのだ。

 

そして毎年大体おんなじ様なことを繰り返して、今年もしっかりその事を忘れていて、思い出しては、しっかりと感動しているのである。目からは鱗で憑物は取れた。やぁスッキリ。

 

 

春はいいなぁ。

 

 

 

ところでホクロを取るとガンになる、という話は本当なんだろうか。

インターネットで調べたらそもそも「ホクロを取るとガンになる」という見出しが出てこず、なんていうか結局は「ホクロにはガン細胞の可能性のあるホクロがある」的なことだったらしい。

 

でも私は確かに昔、「ホクロを取るとガンになる」と誰かに言われた事があるのである。だから実際に自分で自分のホクロを取った時は半分賭けのような気持ちだった。首の右側にあるやつ。でもホクロの下にはまだホクロがあって、それ以上は取れなさそうだったので諦めたよ。あと最近右肘の隅に小さい、それはそれはち〜いちゃいベビホクロが出来ていてびっくりした。ホクロって突然出来るもんなんか。取ってみたらまた下にホクロがあった。なんやねん。

 

 

私はガンになるんだろうか。(恐らくこのホクロのせいではならない)

 

 

ホクロってさ、黒いクセに目立ないね。小さいからかなぁ。他人のホクロは気付いたり気付かなかったりするけどさ、自分のはさ、あれっこんなとこにあったっけ、って、顔にあるホクロでさえそう思ったりさ、それを忘れてたぶん何度も同じところにあるホクロを見て「あれっこんなとこにあったっけ」って思ってたりもするんだろうねぇ、どんな気持ち?ホクロはさぁ。切ないねぇ。私の体にある中で一番大きなホクロはさ、右の二の腕の後ろ側にあるやつでさ、センバ山には狸がおってさ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ、焼いてさ、食ってさ、大体直径1〜2センチなんだよね、これって大きいほうなの?ホクロって大きければ大きいほどきっと可愛げがなくなるんだと思うんだけど、やっぱりこの一番デカいホクロは可愛くないんだよね、小さい時から気に食わないの。(ごめんね)

 

 

何の話?

 

 

今日は仕事が早く終わってやる事ももうないので、寝ます。

 

春だから!!!

 

 

 

本能の話

 

 

人は、死ぬ前に子孫を残そうという本能が働く。

戦争へ行く兵士たちはもう戻れないと分かりながら妻との子を作ったし、映画『土竜の唄』での菊川玲二も暴力団へ潜入する前に彼女の純奈と初めてセックスをしたし、もうすぐ結婚するから最後にと(何が最後にだ)、元カノやそれに近い人たちとヤっておこうとする知人も数人いたし、死というより、旅立ちというのか。男性は大抵、そういう旅立ちの前に、本能的に、(子孫を残さないとという本能が元にあって)(紆余曲折している人もいるが)性行為をしたい、と意志が働くのだろう。

 

女性もそうなんだろうか。

これまでの記憶の中で、その女性バージョンの光景が思い浮かばないので、わからない。わからないけれど、子孫を残したいという思いは男も女も変わらないのできっと女性も同じなんだろう。

 

 

かく言う私は今、ある意味死に瀕していて(詳細は省くが)、その前に何をしたかと言うと、EXILE THE SECONDのライブDVDを観ているのである。

 

何故か。

 

エロいのだ。

勿論ポルノ的な意味合いはなく、いや、でもある意味ポルノなんだけれど、綺麗に言えばセクシー、色気がある、男らしい、けれど一発で言ってしまえば、エロいのである。

 

確かに、単純に、かっこいい。

EXILE系には男性ファンも沢山いることから、男性からも憧れられる、スーパースターであることは間違いがない。

 

しかし私は今、ある意味(どういう意味?)、本能的に、この映像を観ているのだ。

勿論、この人たちとあれやこれやをしたいということではないし、当たり前だが子孫を残さんとしているわけでもない。

ただ、何も考えず、かっこいいから、楽しいから、テンションを上げる為に、観ているだけな訳ではなく、(色々とあって)死に瀕している(ような状態)だから今こうして、EXILE THE SECONDのDVD(ROUTE6・6)を観ているのだ。

 

 

はて?

 

 

 

何を堂々と主張しているのだ。

 

 

 

春立ちぬ

 

 

我が家の一大イベントと言えば、クリスマスでもお正月でもなく、節分のように思う。

 

毎年クリスマスに豪勢な夕食を食べる訳でもなく、お正月も各々がフラフラと居間に下りてきて、新年の挨拶もそこそこにダラダラとお節料理を食べていて。

 

 

けれど節分は、何故か皆で一致団結して(?)ちゃ〜んと「鬼は〜外〜、福は〜内〜」って豆投げて、皆で恵方を向いて各々がでっかい恵方巻を黙々と食べて、歳の数だけ豆を食べる。

これだけは毎年必ず行っているの、なんだかよく考えると笑えるなぁ。

 

子どもの頃からの決まった行事だったので、大人になった今でも「今年もやらなくちゃ!」という義務感が芽生える。

 

だからなのか、毎年、節分を迎えると気持ちがスッキリするというか、我が家によい風が吹く気がするというか。

新年でも誕生日でもなく、この日に。

 

石田ゆり子さんが、節分を期にいろんなことが動き出すと言われている、と言っていて、なるほどそういうことなのかな、と思う。

最近、できるだけ歩くようにしていると言っていて、私も今日(たまたま)二時間程歩いたので、嬉しかった。

 

 

ところで恵方巻を食べるにあたってのルールだけれど、

①切らずに食べる

恵方を向いて食べる

③願い事を考えながら黙って食べ切る

 

恵方というのは、なんだか縁起のよい神様のことで、つまりその方角にはその神様がいるということらしい。

西南西、スマホに入っているコンパス機能を使ってもどの位置なのかイマイチわからなくててこずった。

 

 

ハッ!願い事考えるの忘れた!

 

 

 

 

と、いう訳でいつのまにやら立春

今年の冬は暖冬で、と言っても寒いことに変わりはないし、というか去年もその前もっていうか毎年暖冬って言ってる気がするしなんなら夏も夏で冷夏だって言われてる割に結局暑いもんは暑いし、なんていうか一々毎年律儀に"例年に比べて〜"とか、"去年より3度暖かくて〜"云々、言わんでもええんとちゃいまっか〜儲かりまっか〜、ボチボチでんなぁ〜、さすれば立春というのすら、暦の上でと言われたって実際にはまだ冬だし寒いし春感もゼロだし、あぁでもこの間は確かに日中暖かくてほっこりしたな〜、いやでもそんなん言うたら立春の前にだって暖かい日ありましたやん何言うとんのでっか儲かりまっかボチボチでんなぁ〜、と、世間があれやこれやニュースするのに忙しい中わたしは相変わらずのらりくらり生活していてしかしながら結局、なんでもないようなことが幸せなんだよぅ、と思うに至ったのである。ふざけているようで大真面目なのである。本当に本当に、1×1が1なくらい本当に、小さな事を幸せと思えることが、本当に幸せな事なのである。

 

 

 

 

 

 

今日はすこぶる悪い事が二つ三つ続いた。

冤罪を被ったような気分。とても不快だ。

 

あらゆる負の感情は、「悲しい」に行き着くと、前にも思ったことがある。

怒りも、悔しさも、虚しさも、全て、最終的に、「悲しい」に収まる。

 

だから私は今、とても悲しい。

苛立ち、歯を食いしばり、力が抜け、全てを通過して、ただただ悲しいのである。

 

 

 

しかしながらいつまでもグズグズ落ち込んではいられない。

むしろこの悲しさを、また別の怒りに転化すべきだ。

 

お前らに割いてやる時間などない、どうして私がお前らに一々心沈めねばならんのだ。

 

最終的に収まらなければ、心の中で殺したっていい。頭の中でもいい。

 

 

 

 

そして悪い事の後には必ず良い事が起こる(逆もまた然り)、という不可解且つ絶対的な法則に則って、今回は相当デカい、すこぶる良い事がやって来る。予感とかそういうんでなく、決まり事。必然なのだ。

 

だからまぁ、よしとしよう。

全然よくはないんだけどむしろマジでよくないんだけど、悪霊退散禅譲放伐敵は本能寺にあり、カーーーーーーーーーッ!

 

 

 

 

 

 

 

月が明るくて救われた。

 

毎日死にたいと思いながら生きている。

死にたいというより、終わりたいという気持ち。

苦しい時も楽しい時も、何気なく道を歩いている時も、今、終わったらいいなと思う。

 

 

アメリカとイランの対立について、「揉めてる暇があったらオーストラリアの火事をなんとかしろ」と言う人を何人か見かけた。言いたい事はわかる。私もそうとも思う。けれどそれとこれとは別問題だろう。そしてあれやこれや言っている私達は結局、あれやこれや言っているだけで、今日もあったかいコタツの中でテレビでも点けながら無表情で文字を打ち込んでいるんだろう。

 

 

貧しさとは何か。豊かさとは何か。

そして優しさとは。

 

私は昨日、酒を飲みながら、好きなつまみを食らいながら、テレビに映る貧困児を見て、月三千円の金を渋ったのだ。

 

私は結局、そういう人間なんだ。

自分が何よりも一番で、高みの見物をしながら、ここぞという時だけひょいっと下りて、おっとっと、っという時になったらまた戻って、そういう人間なんだ。

 

 

 

今日もまた、人と上手くいかなかった。

上手くいかなかったと思っているのは恐らく自分だけなんだろうけれど、でもこの自分がそう思っているのだから、上手くいかなかったんだろう。

 

最近ずっとそう。

自分で自分を陥れている事もわかっているけれど、なんだかどうにもならない。

 

 

脳味噌、半分くらい無駄な気がする。

というかこの体、たぶん半分は不要なもので構成されている。