人それぞれ、感情の深さは違う。

 

例えば電車に乗り遅れた時、
悲しいと思う人もいるし、何でもっと早く家を出なかったのかと悔やむ人もいるし、少しくらい待ってくれてもいいだろうと駅員に対して苛立つ人もいるだろうし、諦めて家に帰る人や、自分のヘマに笑えてくる人や、逆にワクワクして特急に乗ってみたりする人や、はたまた何も感じない人だって、いると思う。

 

例えば、泣き虫な人や短気な人は未熟な人間だと、例えば、呑気な人や陽気な人は浅はかな人間だと、言う人もいるけれど、そんなことはない。

 

人それぞれ、感情の深さが違うだけなのである。と、私は思うのである。

 

 

感情の造りは全くわからないけれど、例えば、昔私が遊んだことのある、ゴリラが障害物を避けながらツルを登っていくあのゲームのように、脳の中には感情の線が何本もぶら下がっていて、楽しいことがあれば「楽」の感情線を、苛立つことがあれば「怒」の線を、嬉しいことがあれば「喜」の線を、感情の粒がスルスルと降りて行く。それぞれの線の長さは違っていて、長さの短いものから粒は地面に落ちて行く。粒が地面に落ちた時、私は「楽しい」と思ったり「むかつく」と思ったり「嬉しい」と思ったりするのかもしれない、と思うのである。

 


私は悲しいという感情線が短い。すぐに悲しくなる。大概何に対しても悲しいと思う。時折、怒りの感情線が悲しみの線に絡み付いて、きっと他の人なら怒るだろうところで、泣く。

 

今日接客をしたあのおじさんは、きっと怒りの感情線が短い。自分の思い通りにいかないことで私に怒りをぶつけてきて、その時は軽蔑してしまったけれど、単に線が短いだけだった。

 

会社にいるあの上司は、いつもボーッとしている。たぶん、そもそも粒が少ないのだと思う。

 

 

感情そのものには、良いも悪いもない。怒ってもよいし泣いてもよいし笑ってもよいし何も感じなくてもよいし、とにかくそれ自体は自由だと思う。

 

けれど、それをどう表に出すかで、良いも悪いも決まってしまう。感情の粒はいくら地面に落ちてもよいが、地に落ちたその粒を、落ちた勢いで天に跳ね返すのか、土に染み込ませてしまうのか、そこはしっかりせねばいけないな、と、結果、自分を戒めるに至った。