ハンアンコタ

 

 

感情は少ないほうが楽だろうな、と時々思う。

 

機械のように淡々と生きていたほうが、文字通りの平穏で暮らせるのではないかと思う。

 

だから時折、よい感情も好ましくない感情も、閉じ込めてみることがある。悲しいことや不快なことを見て見ぬ振りをし、愉快なことや刺激のあることにも関わらないようにすることがある。なるべく感情を平らにして、色んなものから少し距離を置いて。

 

 


昔好きだったものや信じていたものを、しばらくの間忘れていて、今日それをふと思い出して、そうしたらやっぱりそれが今でも好きで、今だにそれを信じていて、昔は何も考えずただがむしゃらに追い掛けていたことを、今では正しかったのだと思うようになっていて、好みや信仰に優劣や正不正はないけれど、それでも間違っていなかったんだとわかって、そうしたら涙が出てきた。何かを犠牲にしたわけでもないけれど、なんだか「報われた」という思いがした。

 


好きという感情は時々恐ろしい。
愛と憎しみが隣り合わせであるように、いやそれとはまた違うけれど、好きなもの程触れることが怖くなる。いつかそれらが消えてしまったら、あらゆる事実もすべて無かったことになっていってしまうのではないか。だから、幼い頃仲の良かった友人の家にあった、地下の物置みたいに、そういったところに押し込めようとしてしまう。いなくなった時に気が付かないで済むように。

 


ただそういう時、信じていてる人の言葉は強い。信頼というよりも、ほとんど信仰に近い、そういった人が放つ言葉は、とても重たい。 「真っ白に楽しんで」。たったそれだけの、たった一言が、今の私には酷く響く。


また別の人は、「欲張らなきゃ勿体無い。」と言っていた

 

 

時間という概念が無かったら、世界に時計というものが存在しなかったら、もう少し生き死にに対しての思考はぼんやりとしていたんだろうか。何歳まで生きられるとして、残りはあと何年で、これをするには何日かかって、今これを打っている間に何分が経過していて、そういったことを一々考えている間にも時間は過ぎ去っていって、時間という概念が有ろうが無かろうが時は流れていくのに、それが存在するから、私の部屋には時計があるから、街では12時のチャイムが鳴り駅には時刻表が貼られておりオリンピックでは100mのタイムが競われるから、私は時間というものに怯える。

 

 

 

 

 

と、嘆いたところで変わるものは何もないけれど。気休めに、あったかいコーヒーを飲んだりしている。