自分と話す

 

 

 

何もしない日が来ると、ホッとする。
普段からあんまり色々考え込むのも大変だけれど、ずっと何も考えずに生活していることのほうがよっぽど恐ろしい。


好きな時間に寝て、好きな時間に起きて、好きなときにご飯を食べ、なんとなくテレビをつけてみたり、好きな音楽を聴いたり、好きな作家さんのエッセイを読んだり、好きなアーティストのブログを読んだり、ウトウトしてゴロゴロしてみたり、気になっていた映画を観たり、最近あったことを日記にまとめたり、部屋を少し片付けてみたり、時間のある時にやろうと思っていたことをやったり、そういう時間って、本当に大切だ。

 

毎日毎日、特に日本人は朝から晩までロボットのように働き、時計のように同じ生活を繰り返し、それを重ねれば重ねるほど、自分というものを失っていく。たまにこうして休みがちゃんとあれば、ふっと取り戻して一息ついて、こんな時代こんな環境こんな暮らしだけれど明日からも頑張ってみっか、と思えたりする。

 

 

 

昔、と言っても最近にも同じようなことを思うけれど、「悲しい」という感情を失うことが物凄く嫌で怖いと思っていたことがある。悲しさなんてそもそも感じないほうが楽だろうし、悲しい事があってもあんまり悲しいと思わないようにしていれば、傷も浅くて済むんだろう。けれど、それを何故か酷く恐れていた時期があった。

 

たぶん、自分を失うのと同じことだと感じていたのだと思う。

 


自分というもの、自分という軸から出てくる考え、感情、好み、趣味、表情、言動、行動、その他あらゆる全てのことを、周りの環境や人間関係やあれこれに合わせて押し殺したりごまかしたり無かったことにしてしまったりすることは、自分そのものを殺して無かったことにしてしまうことと同じことだと、そう思っていたのだと思う。

 

その時はハッキリそうとはわからず、なんとなく怖い、嫌だ、失くしたくない、と思っていたけれど、今日ふと、こういうことかと思った。

 

 

誰にでも癖や良くない所もあるし、合わない人だっているし、馴染めない環境だってあるけれど、それでも自分そのものを先ず大切にして、優先して、生きていこうと改めて思った。そのあとに人や環境が付いてきたらいい。ダメだったらダメでいい。

 


そしてそういう自分と、だらだらゴロゴロしながらでも向き合う時間を大事にしたい。普段狭っ苦しい息苦しい場所に閉じ込められているとしても、今日のようにそこからぬくっと引っ張り出して、自分はこうだな、ちゃんと今日もここにいるな、と確認して、そういうふうに過ごしていきたい。