のえへんす

 

 

人生は磁石のように出来ている。

私が磁石なのか、人生というものが磁石なのか、S極なのかN極なのか、両方持っているのか、よくわからないけれど、そういうふうに出来ている気がする。

 

今日、"ねこじゃすり"という言葉を二度聞いた。お昼のバラエティ番組と、夜のバラエティ番組で。部屋のテレビと職場のテレビで。どちらもたまたま、何の気なしに見ていた番組で、たまたま猫が出ていて、そこでどちらにも"ねこじゃすり"が出てきたのである。

どうやら今流行ってはいるらしいが、それにしても偶然だなと思った。

 

もうひとつ、栃木県の"市貝町"というところ。つい一、二日前にテレビか新聞か何かで見、今日もたまたま見ていたテレビ番組に一瞬、出てきたのである。

 

 

こういうことが、よくある。

意識の問題だと言う人もいるけれど、そうでないこともよくある。引き寄せているのだ。磁石のように、私は"ねこじゃすり"と"市貝町"を引き寄せたのだ。どうしてその二つなのかはちょっとどなたか説明してほしい。

 

 

その類なのかは曖昧だけれど、今度行こうとしている国々で、相次いで大きな地震やテロが起こっている。しかしながら地震やテロというのは本当に様々な国でひっきりなしに起こっていて、いつもニュースでその様子は流れているはずで、旅行先だから特別目に付き気にするだけであろうが、う〜ん、試されているのかなぁ、と思ってしまう。お前はこれに揺さぶられるのか、と。

 

 

最近試されている気がするのだ。あらゆる場面で。神なのか、仏なのか、ご先祖なのか、過去や未来の自分なのか、私を試さんとするその正体はわからないけれど、なんだか最近そう感じるのである。

 

職場にいる、生理的というより道理的に無理な人(人と呼ぶにも心苦しい)に関しても、試されているのではないかと思う。百億パーセントでその人(人と呼)が人間的に欠落していて悪いというか、善し悪しというより信じ難いというか受け入れ難いというか理解しがたい人(人)なんだが、それを忌み嫌うのではなく、かと言って好かねばならないという訳でもなく、いかに平らになだらかに、ただそれをそこにいるものとし、それに対して意識を持たずに過ごせるか、空を見て青いと思うが如く、陽の下で暖かいと感じるが如く、そこにその人が居、動き、言葉を発しているのを見て、あぁいるなぁ、動いているなぁ、喋っているなぁという、表面一枚それだけを受け止めて過ごせるか、等を、試されているのだ、これは試練なのだ、と、己を思い込ませ耐え忍んでいる今日この頃なのである。苦心。

というかこれができたら結構な解脱に達するのではないか。流行語としてのサトラーでなく本物の悟りを開けるのではないか。涅槃じゃ涅槃。私はブッダになるのである。比喩としての仏でなく、本物のブッダになるのである。釈迦や釈迦。仏と釈迦の違いもわからないけどまぁいずれ私はそういうものになるのである。アッラー

 

 

最近読んだ紀行本が大変に面白くて、というかその著者が天才的にユーモラスで、一層旅に出たくなった。災害があろうとテロがあろうと生き延びる人は生き延びるし、意外と自分の部屋の中でポックリ逝っちゃったりして、かつてチヤホヤされ続けたアイドルだって病気に罹ってしまったり、人生は何が起こるのかわからないのである。わからないくらいが面白いと、彼も言っていた。そういうものである。

 

 

 

ところで"のえへんす"というのは、ホットコーヒーという意味である。と、今朝見た夢の中ではそういうことになっていた。朝起きてこれはきっと何かのお告げに違いない、きっとどこかの国の小さな村の未開拓の部族の言葉で、そこにいる年齢不詳の神聖なるヒゲモジャの長からのお告げに違いない、と思い、寝ぼけ眼でソッコーグーグルしたらノーヒットだった。ピッチャーだったら褒め称えられるところだけれど私としてはアッチャーというところ。この世に"のえへんす"という言葉は存在しないのだ。今のところ。でももしかすると、やはりどこか遠くの部族の長が、年に一度の村の祭りか祈りか何かの日に、特別な衣装を身に纏い、顔や体には神聖なる動物の血で模様を描き、村人全員に囲まれ、人々の声と風が止んだ一瞬の間、両手を天に捧げて一言、叫ぶのである。

 

 

  ノ  エ  ヘ  ン  ス  !  !  !  !  !