即身仏

 

 

というものを知った。

前にも聞いたことのあったような気もするけれど、何にでもタイミングというものがあるなぁと改めて思う。

 

気になってインターネットでササッと調べて事実かどうかの確認もせず鵜呑みにした情報(調べものをする時の文章を読む行為があまり得意でない)かつ概要だけを把握して自己解釈したものなので、正しくはわからないけれど、とにかくその即身仏という存在が、言葉にできぬ凄みを持っているのである。

 

 

簡単に言うと、お坊さんが、世の安泰の為に、あるいは自身の死後の為に?、最後の最後まで読経しながら亡くなっていく、その亡くなったお坊さんを即身仏というらしいのだけれど、その最後に向けた修行というのか?それが凄まじいのだ。

 

まず、通常の食事から徐々に量や種類を減らしていき、体から余分なもの(脂肪など)を落としていき、そのうち摂取するのは塩と水のみになり、いよいよ終盤に向かう頃になると、地下に作られた、座禅を組める範囲のみの、もはや棺のような所へ閉じこもり、水と空気のみを送る筒だけが通され、あとはそこでひたすら、読経をするのだそうだ。

 

毎日決まった時間に鈴を鳴らし、地上の者はその音で生存を確認する。音が鳴らなくなると亡くなったと見なされ、一旦地上に出された後、(何らかの処置を施して)また、地下に戻されるのだとかなんだとか。

それからまたおよそ三年、地下から引き上げられた時に、ミイラの状態になっていればめでたく(?)即身仏と呼ばれるらしい。(人間の形を留めず朽ち果ててしまったものは、無縁仏として供養されるのだとか)

ミイラが予め脳味噌や内臓を取り出され薬剤で防腐処理をされるのに対して、即身仏は時間をかけて自然に乾燥していくので、実際この二つは別物とされているらしい。

 

 

インターネット上で実際の即身仏の写真もいくつか見たけれど、不思議なことに、これまで見たことのあるミイラとは違って「怖い」「不気味」といった感情が湧かなかった。威厳や、尊さというものを、先ず感じたのだと思う。

 

 

 

私の人生からしたら到底考えられない行為、仕組みであって、調べた時には本当に衝撃だった。

 

どんな世にも人の為に命を削っている人がいて、精神の奥底から平和を祈っている人がいて、あぁ素晴らしいなぁでは片付けられない。片付けてはいけない、と思う。

 

 

皆、平和を願っているはずだ。

痛み、悲しみ、苦しみ、争い、差別、事件、そういったものを心の底から望んでいる人などいないはずなのだ。そんなことは誰だって知っている。

それでも、弱い生き物だから、平和よりも先ず自分が大事だから、そういう時、正当防衛的な矛盾が生まれて、少し歪みながらも正常に世界は動く。

 

 

何の事を言っているのか、自分でもわからなくなってきたけれど。

 

 

毎日みんな、色々な悩みを隠し持って、強みを盾にして、頑張って生きているなぁと思ったこと。

たぶん連結していないけれど、今日一日であれこれ考えて考え着いた先が、そういうことだった。

 

 

 

明日も精一杯、生きよう。