乾杯

 

 

何がしたいかわからないんではなくて、何もしたいことがないんではなくて、何もしないをしたいんだよ。

この競争社会の中で。徒競走か?

ずっと走っていないといけない、ずっと追いかけていないといけない異常な世界で。私はただ止まって、ボーッと自然の美しさを体で感じていたいんだよ。

 

何をやっても上手くいかないことって誰にでもたまに起こることだけど、それが今4ヶ月くらいずっと続いていて、ここまで来るともう、何をやっても本当にダメなんだろうから、何かをするのが怖くなる。休みの日に家から出てカフェや公園に行くことでさえ、何か良くないことが起こるのではないかと思うと怖気付いてしまう。

 

なんとか立て直そうと色々と試みているけれど、天上の何か強大な存在によって弄ばれていると信じてしまうほど、裏目に出る。歯車が合わない。

自分の力ではもうどうにもならないのかもしれなくて、誰かに助けてほしいと思うけれど、誰に助けを求めたらいいのか、また、誰なら助けてくれるのか、見当がつかない。

 

もういっそ全部辞めたいのだけど、全部辞めるのにも相当な勇気とエネルギーが要る。

 

何百回、何千回と聞いた歌が、脳を介する前に全身を突っ切って、支えてくれる。

 

泣きながらご飯を食べたことがある人は強い、とよく聞く。強いかどうかはわからないけど、泣きながらご飯を食べられるっていうのは、まだ生きられる力があるってこと。まだ終わりじゃないということ。

 

美しいものに対して美しいと感じたり、小さな幸せに気付けているうちは、まだ大丈夫だと思う。それだけで、生きている価値があるのだと、本気で思う。

 

 

知人がこの3、4年間の中で最も達成したかった偉大な目標を遂に達成する瞬間に立ち会って、ただただ感動した。

私が誰かに最も祝われたい瞬間っていつだろうと考えた。誕生日や出世や結婚出産、そういったものでは確実にない。

あぁ死ぬ時だな、と思った。

死ぬ時に、"あぁアンタ遂に、良い人生を良い形で終えるのね。おめでとう!"って、祝われたい。

 

そのためにやるべきことややりたいことは、沢山ある。そうやって逆算すると、あぁまだ死ねないんだな、と思う。

 

 

あーあー、

何もしないをしたかったのに、大量に考え込んでしまった。でも良い時間だった。

 

おわり

美しい朝に

 

 

天気の良い朝の、この静かで穏やかな時間がずっと続いたらいいのに、と思う。

大きなものではないけど、体の芯を通って染みていく、確実な幸福。

 

美しいものを見て涙が出る時、自分の周りにおそらく何重にも纏わりついているぼやけた膜が一枚剥がれるような感覚がする。心の浄化と似たようなことなんだろうけれど。

 

 

これまで真剣に幸福を願ってきた人たちは、いま幸せに暮らしているだろうかと時々考える。そうであってほしい。

世界平和は今だに叶っていないけれど、地球が滅びる前に一日くらいはそうあってほしい。

 

 

2021年5月30日

 

 

鳥がただ、鳴いていればいいのではない。

山がただ、そこにあればいいのではない。

ただ、天気が良ければいいのではない。

ただ、静かに風が吹けばいいのではない。

ただ、人の音が無ければいいのではない。

 

ただ窓が開いていればよいのでもなく、

ただ丁度よい気温ならばよいわけでもなく、

ただ暇をしていればいいわけでもなく、

 

すべてが心地よく合致していなければ意味がない。

窓を開けると穏やかな風の吹く、清々しい天気の夕方に、鳥の声が山にこだまして、それ以外の音は無く、そうしてそれを美しいと感じる心がある。

 

生きている意味がある。

喉が渇いて水が欲しいと思った時、

読んでいた本の一節に心惹かれた時、

テレビの人に向かって笑えた時、

些細でくだらない事を、些細でくだらないと思いながら、大切だとも思える時、

あぁまだ生きる意味があるなぁと思う。

生きる意味があるのなら、生きられるなぁと思う。

 

 

2022年3月31日

 

 

豚の心臓を移植するとか、

猿へのコロナ感染に成功とか、

殺処分される猫を救う為の去勢手術とか、

犬を鎖で繋ぐこととか、

 

一瞬ゾッとするけど、でも結局自分もそっち側なんだということに、更にゾッとする

 

 

早く地球滅びないかね

 

 

死ななくてもいいのに

 

神田沙也加が死んだと知って、

「まだまだ若いのに〜!」

「もし仕事が悩みなら仕事辞めてなんとかならなかったのかな!?」

「周りの人たちは気付いてあげられなかったのかな」

 

と言っている人達がいたけど、

そういうことじゃないんだよ、と思う。

 

テメーに何がわかるんだ、と思われても、私は、

わかるよ!と叫びたい。

死ぬことは絶対悪ではないよ!と認めたいし、

その人だけの苦悩から解放されたことにホッとしている。

これまで頑張ったね、と讃えたい。

 

「なにも死ぬことはないのに!」という言葉に、私は、びっくりしてしまった。

世の中には、そういう考えもあって、というかそういう考えが主流なんだなと思って、驚いて、悲しくなった。

 

 

生死についての本を読んでみたり、そういう人たちの言葉を聞いてみたり、宗教を学んでみたり、自分の中で考えてみたりするけど、正しいものなんて無い。

 

この命は自分だけのものだよ。

この人生を操れるのも、自分だけだよ。

沿道で応援する人や、伴走してくれる人がいてくれても、補給係の人がいても、ゴールテープを持って待ってくれている人がいても、走るのは自分で、自分の足で、歩くのもリタイアするのも自分の脳と心で、呼吸をするのも自分の口や器官で、ほかの何者も、これをできやしないんだよ。

 

そう思って悔しくなった。

 

2021年12月20日

 

これもまたいつかの日記

 

存在すら忘れていた日記を読み返したら、本当に驚いた。まるで別人のような自分がそこに居て、奴は誰が見ても明らかに鬱病だった。奴も自分で自分を鬱病だと思っていたけれど、周りに笑って流されて、鬱病じゃないと思いこませようとしていた。

 

毎日死にたいと書いてあった。

文字通りの死にたいとは違っていたけれど、毎日生と死を天秤に掛けていたし、自分自身の存在意義や生きることの意味をずっと探していた。

 

その頃はとても、なんというか物凄く、精神がごちゃごちゃしていた。

いつのまにこう変化したのだろうと、驚いている。

 

ただそれでも、やっぱりまだ奴が今の私の頭の端っこに、心の奥底に、体の隅に、神経の途切れそうなところに、いる。

 

 

いつかの日記その5

 

人はいつでもひとりで、この体の中に何人もの自分がいるわけではないのに、それでもたまに、特に数年前の自分が、濃い黒い影をして、私を支配しようとしてくる。


今は以前に比べて十分強くなって、フラフラしながらもピシッと立っているけれど、それでも不意に奴が出てきて、引きずり込むとかのし掛かるとかとは違うのだけれど、むしろフワッと抱きしめてくるかのように、今の私にそうしてきて、私は麻痺する。時空が歪んで、昔に戻ってしまうかのような感覚になる。それが心地よいのではと思ってしまいもする。


時は解決をする。

考え方は変わる。

強くなる。

柔軟になる。

予測がつき、自信がつく。

寛容になる。


それでも時々、ダメになる。

睡魔のように甘くフワッと誘われて、幸せの顔をした雲に乗せられて、夢が始まってから、あぁ悪夢だと気が付く。それでもってなかなか、抜け出せない。

 

早く旅をしたい。どこでもいい。

旅が何かを変え救ってくれる訳ではないことはもう十分にわかっているけれど、それでもここにいるよりはずっといい。


自分だけの世界をちゃんと生きたい。

他人がいてもいい、交錯してもいい、その中で他に侵されない自分の城を壁を作って生きたい。