ボールズ

 

 

ボールズという大好きなバンドが昨日、解散した。

 

三年前、CDショップで見掛けたジャケットが可愛いらしくて、その場で視聴をしたあの瞬間、頭のメロディーに一瞬で脳の神経を、ボーカル(やーまんさん)の声に一瞬で内臓を、持って行かれるような、感覚だった。今だにハッキリと、恐らくマサイ族かどこかの一族が1キロ先の物をハッキリと認識できるくらいハッキリと、その時のトキメキを覚えている。思い返す今でさえドキドキしている。

 

ライブにもよく行った。
ボールズは大阪のバンドだけれど、よく東京にも来てくれた。地元を大切にしつつも関東まで来てくれるところがまた、好きだった。

 

初めてライブを観た時のトキメキも忘れていない。あの時も一瞬だった。一瞬で全身の血液が勢いよく循環し出すような、感覚だった。CDでの「爽やか」、とにかく爽やかなイメージとは一変、ライブでは真夏のような熱気と、ラムネのようにパチパチ弾ける音楽と、ポップコーンのようにポンポン飛び跳ねるメンバーと、そしてその周りに、目に見えるかのようにキラキラピカピカしたものが浮かんでいて、私はひたすらワクワクした。

 

野外でのライブもまた、素晴らしかった。
朝の澄んだ空気と自然に囲まれた広いステージがこれほど似合うバンドなんぞあるか!と思うほど、爽やかで、心地よく、素敵であったのを、思い出す度にちょっぴり切なくなる。

 


そしてワンマンライブほど最高なものはなかった。好きなバンドひとつだけのライブなんて、最高に決まっている。バイキングと同じ、好きなものしかお皿には載らない(、というイメージ)。
お客さんも皆、何かしらそのバンドに興味や好意があって来ている人たちなわけだから、もうこれは鬼に金棒、最高が2倍にも3倍にもなる。

 


そんな素敵なバンドが、昨日を以って解散した。空気が一斉に入り込もうとすると圧力か何かで全く入れなくなるような法則があったようななかったような気がするけれど、解散と知った時は、色んな思いが一気に集まってつっかえ、ひとつも外に出てこなかった。その後しっとり考えると、寂しくて、悲しいとか嫌だとか解散しないでとか、思うことは沢山あるけれど、総じて寂しいと思った。、


それでも、好きな人の好きな曲を好きになるような感覚で(違うかもしれないけれど)、好きな人たちの決めたことならばそれが一番よくて、正しいのだと思う。
各々がもう前を向いて進み始めているから、尚よいのである。

 

何より、ボールズが大好きで、それだけでよかった。好きが一番大きいのなら、何であってもよい。

 


最後の(とは思いたくないけれど)ライブは、一年振りに観たライブは、いつも観ていたものと何ら変わらない、限りなくよい意味で特別感のない、どこまでも楽しい一線のライブだった。やっぱりキラキラしていて、真っ直ぐで、あぁスポットライトのよく似合うバンドだなぁとふと思って、「寂しい」よりも「楽しい」がずっと強くて、楽しくて、ワクワクして、最後までそんなライブをしてくれるボールズを、やはり素敵だなぁと思った。ホームの大阪でライブを観られたことを、とても幸せに思っている。

 

 

ライブが終わってからはずっと、脈が不穏で、心臓が時折ドンッと跳ねて、落ち着かない。結局は寂しいのである。実感が湧かない。そらぁ、死んでしまうわけではないからボールズがいないという感覚は掴みにくい。
一晩寝て起きたら、ちっと冷静になったけれど、メンバーのコメントを見たらまた動機・息切れ・気つけが起こったり起こらなかったりしてきて苦しい。

 

 

 

私は、本当に、ボールズが大好きだった。
見えぬ先のことを誓うのはあまり好ましくないけれど、それでも私はこれからもボールズが大好きで、これからもボールズの音楽を聴いて、いつかまたライブをしてくれることを密かに楽しみにしながら、待つのだと、これまたマサイ族のあれこれのように、ハッキリとわかっている。

 

 

力強くて、いつだって私たちをステージの上へ引き上げてくれるように歌うやーまんさん、セクシーに格好良くベースを弾く阪口さん、絶対にMCを外さない、控え目ながらも存在感のある池ちゃん、大胆に愉快にフロアを盛り上げてくれるジャスミンさん、そんな4人を後ろから見守りながらドラムを叩くぐっさん、そして活動休止中のボールズを動かしてくれ、唯一のライブではずっと笑顔で楽しそうに演奏してくれた森重さん、皆さんにとても感謝しています。

 

 

ボールズは、本当に、素敵なバンドで、ボールズの音楽は、本当に、楽しくてワクワクする音楽で、私はずっと至福でした。

 

 


これまで沢山、沢山ありがとうございました。どうか皆さん、これからもお元気で。

 

 

どうしてビールは「とりあえず」なのか。

 

 

ビールを不味いとしか思えなかった頃、大人たちの言う、「とりあえず生」が格好良くて仕方なかった。

 

誰もが通らざるを得ない道、そうしていつのまにか通学路のようになっているもの、そう、それがビールというもの

 

ビールは通過儀礼だ。
好きでも嫌いでも飲まねばならぬ。ならぬものはならぬ。そうして味を覚え好意を覚えていく。

 

いつの間にか私も一先ずビールを頼むようになり、あの頃の「とりあえず生」への憧れは薄れ果てた。

 

確かにビールは美味い。生ビールなら尚よい。甘くもなくキツくもなくあの黄金:純白=7:3の見た目も美しい。まず先に飲みたくなる。

 

 

カクテルでも焼酎でもワインでもなく、何よりも先ず、ビール。ビールは凄い。ソフトドリンク界で言えば水だ。だからビールは凄い。

 

 

しかし何故、「とりあえず」なのか。

気持ちはわかる。私も時折とりあえず注文する。しかしそれでよいのだろうか。

 

「とりあえず」という言葉は使うな、と誰かに教わったことがある。諦め感というのか、そういった負の感情が浮き出るから、ということらしい。私もそう思う。

 

だからな、ビール好きの大衆、本当にビールが好きならば、「とりあえず」はやめような。

「何よりもビール!」「我先にビール!」もしくは「生!」の一言で頼もうな。と私は思うのである。

 

 

 

が、ビールは太るしハゲる(らしい)。

よくない。非常によくない。

時折、なんでこんなものを(失礼)飲んでいるのか、と思うことがある。

けれどビールは旨い。

だから飲料会社は一刻も早く、ビールではない、限りなくビールに近いものを開発してくれ。太らないしハゲないやつ。

 

 

と思う日々が続く

 

 

 

 

人それぞれに、好きな色や嫌いな色、落ち着く色や興奮する色がある。

 

色には甲乙が無いと思うけれど、

それでも赤は凄い。

 

信号、特別価格の文字、テストの点数、ハートの色、どこの国でも赤なのかはわからないけれど、ヒトは赤に反応し易い。のではなかろうか。

 

習慣のような、条件反射のような、そんな気もするけれど、例えば「止まれ」や

「本日限り!」の文字や100点もしくは0点の色、心臓並びにハートの絵の色が青だったらどうだろうか。危機感や高揚感はあるだろうか。(いや、ない。)

 

 

もしかするとこれは洗脳かもしれない。

生まれた時から赤が危険や特別を表す際に多用されているから、赤は危険や特別な色なのだという、洗脳なのかもしれない。

あるいは暗いものが見えにくいという人間の性質によって、明るい色、とりわけ赤に反応し易いのかもしれない。おっと、こちらの推測のほうがイケてるな

 

 

 

夕陽の美しさと言ったらいつでも言葉にならない。夕焼けに感動しない人はいるのだろうか。

唯一、朝陽を夕陽よりも美しいと思ったことが一度だけあったけれど、それ以外はいつだって夕陽が美しくて、時折涙が出てくる。(ババアは涙脆い)

 

それでは一体、何が夕陽を美しく在らせるのか。というのが本日の議題である。

 

そうして至った結論が、赤

 

赤は人を動かす。

赤は美しく、躍動的で、力強い。(というイメージ。)だから夕陽は美しい。

 

 

では何故、赤は美しく、人間の心を動かすのか?というのが、本日の本物のテーマである。(ヨッ!トラップ女王!)

 

 

そして、考えに考えふと、胎内の色だと思った。

 

本当のことはわからないけれど、

私は、胎内の色を赤だと思っている。

というより誰かが赤と言っていた気がする。だから私も赤だと思っている。

 

だから、夕焼けを見ると、胎内に居た頃を本能的に思い出し、切ないような懐かしいような恋しいような思いをし、熱く胸打たれるのではないだろうか。いや、きっとそうに違いない。

 

 

赤は素晴らしい。

 

 

 

 

 

でも私は緑色が好き

尿

 

 

睡眠はとても重要だ。

眠らないと人は死ぬかもしれないがそれ以前に、眠らないということができない。

 

アメリカかどこかで行った睡眠実験に関する記事を読んだことがある。

何人かの被験者が、とにかく眠らないようにする。新聞をひたすら読み続ける、という内容だった気がする。

最長で一週間だか二週間、眠らない人がいたらしい。

 

もっと昔、ナポレオンだか誰だかは、一生に一度も睡眠を取らなかったという話も聞いたことがある。

 

 

眠らずとも生きられるのであれば、私はそれが心底よいと思う。眠っている時間はとても勿体無い。結局人間はアイフォンと同じで、充電がゼロになれば画面は途切れ、再び充電をしなければいけない。

 

 

前置きはさておき、私は睡眠6時間を超えると、トイレに行きたくて起きてしまう。軽く悩んでいる。(一円玉の重さくらいに)目が覚める前は必ず、夢の中でトイレにいる。

 

人間の知能というのはよくできたもので、私は夢の中で決して用を足すことはできない。故にオモラシをしない。

 

例えば、今思い出せる限りでは、

トイレの便座が高い(2メートルくらい)、待っている人がトイレのドアをこじ開けようとしてくる、トイレのドアが無い、等、大概は公開トイレが多くて尿を出せない、というパターンが主流。

本当に稀に、夢の中でオシッコをしている時があり、目が覚めた瞬間にハッとして布団を確かめるけれど、面白いことにオモラシはしていない。

 

夢の中でオシッコをしているのに、実際にはオモラシをしていないというのは、いかに人間の知能が優秀であるかを表していると思わないかい。思うよね。

 

 

 

終わりだよ。