222才

 

 

世界中の全員と巡り会うまで死にたくない、と思っている時期があった。

 

意味はそのままの意味なんだけれど、自分のいる空間は本当に狭い。自分の中ではそこそこ広げたくらいだけれど、人生八十年しかないのに、一秒に一人と出会ったところで志初めで死んでしまうようなものなのに、ずっとこの狭い空間に、ほとんど同じようなことを繰り返して生活しているのは、馬鹿馬鹿しいくらい勿体無い、とハッキリ言葉にしてみると、いかに馬鹿馬鹿しいのかがしっかり露呈されてしまって、その馬鹿馬鹿しさたるや、と、もう何が馬鹿馬鹿しくて何が馬鹿馬鹿しくないかわからないほど馬鹿馬鹿しくなってくる。

 

その頃は、できるものならば既にこの世に居ない人や、これから先産まれてくる人全ての人に出会いたいとさえ思っていた。そういえばそんなことを思っていたなぁ、とふと思い出すと、確かに今だにそう思うことは思う。

 

 

諦めることも大切だと、なんとなぁ〜く、思う。自分の為に。キッパリしないと、ずっとグズグズとその場に居座ってしまって、動けなくなる。だから、地球に人間は100万人くらいしかいないことにする。できないけど。70億いるらしいけど。会ったことないから知らない。

 

 

全人類と出会えたら、物凄く、とにかく自分にとって物凄い人を発見できるのではないかと思うんだよ。「この人と最期にガンジス川を流れたい」と思える人や、畏れ多く思うほど尊い人や、視野が10度くらいしか無くなってしまうまでに憧れる人や、本当に腹と背中がくっ付いてしまい、死ぬまで笑う以外のことができなくなるくらい面白い人や、脳の中を泳ぎたいと思ったり、脳味噌を取って食べてしまいたいと思うくらい魅力的な感覚を持っている人や、自分と180度ぴったり、真逆の考え方や行動をする人や、はたまた一挙一動全く同じことを考え動く人や、テレビですら見た事もない不思議な力を持っている人とかに、出会えるかもしれないじゃないか!と思うと、全員に会わないと死ねない!嫌だ!私死なない!生きる!生き延びる!サバイバル!と思っていた頃があったのである。うわ、思い出すとやはりその頃の考え方に引き込まれる。今の私もそう思い始める。

 


今いる場所にも、素敵な人は沢山いる。これも諦めかもしれないし、いや、そうでないかもしれないけれど、これが全てなのかもしれない。ここにいる人たちが全てで、ここにいる素敵な人たちが全てなのである。これ以上大きな場所へ出ても、ただだだっ広いだけで、そこには何も無くて、結局、この狭い所に戻ってくるのかもしれない。

 

歴史にもしもは無い、とよく言う。だからこれが全てだ。そうなんだと思う。そう思う他無い。


なんだか悲観的な考え方な雰囲気が出ているけれど、決してそうではない。むしろハッピーなのよアタイ。(前の記事を引きずっている)

 


本当に、今の私の周りには、ワンダフルな人たちが沢山いて、会える機会もそう多くは無いけれど、有り難く思う。なんていうか、こう、私の人生が線路だとしたら、あ、電車のほうがよいかな、電車に、本意にも不本意にも、乗り込んで来てくれたことを、有り難く思っている。私が乗り込むこともあるけれど。だから降ろしたくない。降ろしてしまった人も、降りて行ってしまった人も、少なからずいるけれど、降りてほしくない。

 

電車の車掌さんは凄い。毎回欠かさず乗客に対してお礼を言う。「お疲れ様でした。ありがとうございました。」
と、言う。遅延や急停車をしたら謝る。一駅ごとに安全確認をする。常に安全運転をする。

 

強引にふたつ上のブロックに被せようと車掌さんの話をしてみたが、とにかく私も、そうでありたい。そうあらねばいけない。

 

 


えっ、結局何の話だっけ、
つまり、命在ることに感謝ということ。
あら、そうだっけ。まぁよい。ありがとう。

ギッチョ

 

 

ギッチョって、ダサ過ぎるだろ。名前が。そもそもどういう意味だよ。と思って調べてみたら、なんとビックリ、ピンと来ない。

 

ギッチョって差別語らしいけど、そらぁこんなダサい名前、差別語に抜擢されるに決まってるだろ。スタメンだよスタメン。しかもエース。プロ注目

 

 

左利きって、「器用だね」「格好良い」等言われがちだが、確かに左利きだったら格好良い。

 

私は左利きに生まれた。あ、いや、そういう訳ではなくて。自分で自分を持ち上げちゃう系じゃなくて。いやいやいやだから、決して上のひとブロックは私を美化させる為のものではなくて、いや、だから


ザ・左利きは本当に素敵だと思う。字を書くのも左。なんなら書道も左。ご飯を食べるのも左。ボールを蹴るのも左。電話をするのも左。全てにおいて体の左側を使うのであれば、それは格好良い。「サウスポー」という言葉がよく似合う。


対するアタイ、字を書くのは右、ご飯は左、ボールは右足で蹴って電話も右手で持つけど歯ブラシは左手でする、と言った具合。小学生の頃、親に一度右手に直されたんだけど、使いづらいものだけまた戻しちまったのよ。だからなんていうか、ギッチョ。えっ?もしかしてこういう奴のことをギッチョって言うの???「ザ・左利き」が“サウスポー”ならば私はまさに“ギッチョ”ってかんじ。うわ、ダッセェ。嫌だ。嫌だ!!!こんなの嫌だ!!!ギッチョなんか嫌だ!!!!!ママーーーーーーーーー!!!!!!!!!!(※本当にお母様のことを責めているわけではありません)

 


突然ですがここで、左利きあるあるをご紹介します。
①ハサミが切れない
②駅の改札の「ピッ」が遠い
③定規の向きが逆
④折りたたみ財布を開くと逆
⑤スープを掬うおたまの、ひょっとこみたいな部分が逆

 

ギッチョ(私定義)なのでこれくらいしかパッと浮かばないけれど、サウスポーの人はもっと生活しづらいのだと思う。あぁ、神様って不公平。あぁ。

 

 

そろそろ本題なんだけど、あ、そろそろ本題なんだけど(重要)、私が今日一番主張したいのは、

 

ギッチョは生きるのが辛い

 

ということである。

 

 

 

は?

 

 


って思うよね〜、思っちゃうよね〜〜

 

 


、、、思っちゃうよね〜〜〜〜〜〜〜

 

まぁ私も逆の立場だったら手は出てるけどまぁ聞け。聞いてくれ。


ギッチョ(私定義)っていうのはさ、右利きでも左利きでもないわけ。ましてや両利きなんかではないわけ。
大概、左手を使っている時に、「あれ?左利きなの?」と聞かれるのだけど、大概、「あっ、いやっ、えっと、、、」と一気にコミュ力が低下する。この瞬間に友達が五人くらい減る。(嘘)

 

ていうかぶっちゃけどうでもいいと言ったら超どうでもいいんだけど、聞いてくれ。まだ先は長い。

 

私としては、全てにおいて左手を使えるわけではないので「左利き」と言うのは嘘になるし、かと言って「右利き」というのも嘘になる。だってさ「右利きです」と伝えた相手とご飯を食べに言ったら「えっなんで左なの?」ってなるじゃん。なるじゃん。嘘つきじゃん。嘘つきは泥棒の始まりじゃん。嫌だ。まだ私捕まりたくないよぅ。嫌だよぅ。よぅ。だから大概「こういう時は右で、こういう時は左で、、」と頭から説明するのだけれど、そうなると相手も大概「えっ、じゃあ両利きなの?すご〜い」と勝手に話を進める。待て。話を最後まで聞けよ。幼稚園でエミコ先生に教わったじゃんよぅ。よぅ。

 

両利きっつうのはさ、両の手でありとあらゆることができることを言うんだろう?文武両道とかバイリンガルとか水陸両用とか両生類みたいなもんだろう???そんなスーパースターなんか滅多にいねぇよ!!!!!と思うんだよ。アタイは。

 


そろそろ話は終わりなんだけれど、嵐の二宮くん(普段はニノと呼んでいるくせにちっと気遣う)がまさにギッチョ(私定義)で、何年か前にしゃべくり007に出ていた時に、左利きについて話をしていてさ、まさに私が主張したいことを丸ごと言ってくれていたの。ユーチューブか何かで是非観てくれ。頼む。一生のお願い。あと三回しか使わないから。お願い。

 

 

 

以上を完結にまとめると、

 

ギッチョってダサい。名前が。


えっ?これ一行目で言ってない?間の長い説明要らなくない?って思ったそこのアナタ!いや、アナタじゃなくて、その隣の赤い服、いや、アンタの服は小豆色だわ。だからその隣の、

 

 

もう本当にやめるね。
最後まで読んでくれた人がもしこの世に一人でもいたならば、なんていうか、私、なんていうか、

 

 

 


嬉しい。ありがとう。長生きしてね。ラブ&ピース。

9600km

 

 

真意を伝えるのは難しい。
言葉ひとつでも、自分の抱くイメージと相手が抱くイメージは違うし、「、」や「。」の位置、声の調子やテンポ、表情や目の動き、手や体の使い方によっても、言葉の印象はガラッと変わる。
私にとって最高級の思いを最大限に伝え切ったとしても、おそらくきっと、相手には3割ほどしか伝わっていないんだろうな。仕方の無いことだが、残念に思う。


もっと、超音波のような、伝達方法があったらよいなぁ、と思う。
超音波が実際にどれほどの機能を持っているのかは全く知らないけれど、私は、超音波は、物凄い力を持っていると思い込んでいる。テレパシーだ。テレパシーと同じだと思っている。
いいなぁ、超音波と、テレパシー。私も使いたい。


私の尊敬する人や、好きな人や、大切な人たちが、良くない所に居るのを見ると、酷く心苦しい。なんとかせねば、と思うけれど、結局他人にできることなんてほぼ無い。
わかるよ、本当に、わかるんだよ、と、言いたいけれど、本当にわかる時があるのだけれど、一体お前に何がわかるんだよ、と言われてしまいそうで、恐れ多くて言えない。


念じ続けたら、使えるかしら。テレパシー。使えそうな気がする。あれ、本当に、出来そうな気がする。

 

 

 

私は!とても!心配しているよ!そして!たくさん!想っているよ!いつでも!どこにでも!帰っておいで!また会おう!いつだって!

 

伝われ!

煙草

 

 

煙草って美味しくない。楽しくもない。そして身体中に害がある。最悪だ。

 

これまでに二度だけ、本気で煙草を始めようと思ったことがある。
友人の5割前後が喫煙者で、何度か分け与えてもらったこともあるけど、いざ自分でじっくり吸ってみようと思うと全く良くない。


一年程前に初めて自分用に煙草を買って吸った時、全身に害が巡り巡るのがよくわかって、本当に死ぬかと思った。ヤク中はこんな気持ちなんじゃないかと思うくらい頭もフラフラして、その後の吐き気も酷い。一生吸わねぇぞと思った

 


〜  一年後  〜

 

 


なんていうか手持ち無沙汰になり、あぁそういえばと思って、案の定ずっと同じ所に埋もれていた煙草を吸った。煙草って開けっ放しにしておくと湿気ると聞いたんだけど、私にはこれが湿気ているのか湿気ていないのかすらわからない。そしてやはり不味かったのですぐに捨てた。ていうかまともに煙草を吸ったことがないので、捨て方がわからない。ていうか灰皿すら家に無いので、カンカン(ってみんな言うのかな)のフタを灰皿代わりにして、灰は水で溶かしてゴミ箱に捨てた。それからなんとなく部屋が焼き芋の匂いがするのだけど、もしかしてまだ燃えているのかな。

 


煙草っていいことがない。
死期が迫るだけだし部屋が臭い。
けれど、換気の為に窓を開けたら程よく冷たい風が、程よく入ったり出たりして、心地よい。やっぱり人生悪いことだけじゃないよな、と思う。(しみじみ)

 

風の音を聞きながら、一体この歳になって何をしているんだ、と、まるで田舎のヤンキーみたいじゃねぇか、と思って、なんだか懐かしい感覚がした。ヤンキーになったことないけど。yeah

 


とにかく、これで十分懲りたのでとても満足している。ていうか世間ではもう、電子タバコが主流になりつつあるのね。私がせっかく煙草デビューを果たそうとしているというのに。こうやってパッと死んでいくのよね。

 


自分も吸おうとしていて何だけれど、本当に煙草は好きじゃない。初めの頃は匂いすら嫌で嫌で嫌で、絶対に煙草のある場所へは行きたくなかったし、どうしても煙草の煙に監禁されるような事態には、もう本当に死んでやろうかと思っていた。それは嘘だけど。

 

今だに、近くで煙草を吸っている人に対して、絶対私より長生きすんなよ、まじで、と思っている。これでもやんわり言っている。本当はもっと直接的に、言ってはいけないことを言いたい。でも言わない。平和主義だから。ラブ&ピース。喫煙者の知人がこれを読んでいたらどうしよう。終わりだ。この世の終わりだ。オーマイゴッド。ごめんね。

 

 

明日の朝、部屋が焼け焦げていないかだけが心配。

石ころ

 


石ころと会話ができたら楽しそう。
拾う度に、話し掛けてくれる石ころ

 

そやつらが面白いやつらだったら、もっと楽しそう。
お笑い芸人みたいに、拾うとギャグを言ってくれて、どれでも好きな石ころを二つ同時に拾うと、即興で漫才をしてくれる。
笑い方が面白い石ころとか、昨日あった面白い出来事を話してくれる石ころとか、いたらいいなぁ

 

そう考えると石ころになるのも悪くない。
高校生の頃まで散々蹴り飛ばしていた事を、申し訳なく思う。

 


自然と会話が出来たらおもしろいだろうにな。(趣深いほうの)

嘘か本当かはわからないけれど、花と会話ができると言っていた女優さんがいたし、小人が見えると言っていた芸能人もいた。
動物と会話ができる外国人もいるし、霊と会話ができる人もいるのだからたぶん、本当に、彼らは話ができるんだろうな、凄い、そして、至極羨ましい。

 

何かそういった、特殊な能力を持っている人にしかできないことで、きっと私が後天的に得られる能力ではない。から本当に羨ましい。

 


猫とも話をしてみたいな〜、あの子たちはいつも何を考えているんだろう。猫同士の会話も聞いてみたいし、猫の集会にもお呼ばれしたい。山奥の大樹なんかとも会話ができたら、人生がとても豊かになりそう。何千年も生きているから、きっと何でも知っている。私の悩みなんぞちっぽけでくだらぬと、威厳を持って教えてくれそう。




今、目の前にテントウムシがいるのだけど、たぶん、私に何か訴えている。全くわからないけど。そんな気がする。

 

毎日密かに鍛えていたら、いつか本当に、何かしらと話せるようになるんでないかな〜

読む

 

 

国語が好きだった。
漢字や四字熟語や、文章を読むのが好きだった。

 

けれど読解が出来なかった。
「この一文に込められた話者の意図を説明せよ」なんていう問題が、何よりも嫌いだった。

 

わからない。
選択肢があっても、ほとんど間違える。
ていうか会話に正解も不正解もなくね?いや、あるかもしれないけど、マルとかバツとか付けられなくね?とテストの度に思っていた。

 


人の思考がわからない。
大学時代、人と全く会話が出来ない時期があった。
相手の言っていることがわからず、グループにいても自分だけが理解できず、会話に遅れていく。
やっと納得できたかと思えば、いつでも上手い具合に取り違えていて、結局何について話していたのかわからない。

 

自分の話もまた、理解されなかった。
私は人間か?この口から出ている音は意味を成しているのか?と、疑うほどに、意思疎通が成り立たなかった。毎日不安で、悲しかった。

 

 

単に、人の話を聞いていなかったのかもしれない。ひとつ聞いてはひとつ忘れ、話が戻っても私だけ戻れなかったんだろう。ただの馬鹿じゃねぇか。


関係あるのかないのかわからないけど、推理系の小説やドラマに、まんまとハマる人間だった。今だにそう。
私の母は勘が鋭い。「あの人怪しい」「この人絶対犯人だよ」とかよく言い、結構当てる。私は大概「は?全然普通じゃね?」と思いながら観ているけど、結局その普通なやつが犯人だったりする。

こういうのも、詰まるところ読解力なのではなかろうか。観察力?
一人一人の言動に注意し、それを持続させ、話の前後を繋ぎ、最終的にその人その人の心理にも気付く。のかな?私にはわからないけど


言葉の無い会話って素敵よね。
音を発さずとも、相手の意思が読める。いいなぁ、そういう人間になりたいなぁ