夏の匂い
夏の匂いはなんの匂いなんだろう。
ここ数日で、物凄く夏の匂いがしている。
夏はよい。
夏は、夏というだけでよい。
ジリジリと音を立てんばかりの陽の熱さも、モワッとしてボヤッとしてしまう空気の籠もり具合も、ジメジメしていてイラッとしてしまうほどの雨も、耳にこびり付いて離れない蝉や蛙の鳴き声も、暑くて寝付けない夜も、かといって冷房は付けずに窓を開けておく時間も、早い朝も、ちょっぴり薄ら寒い朝も、一日の始まりから終わりまで、何もかもが、よい。
夏の眩しさが本当に好きだ。
他に何も言わせないような、我が道を行くような、自由気ままで愉快そうな、怖いもの知らずのような、夏のそういうところが本当に好きだ。
(「〜だ。」という書き方、「吾輩は猫である」くらい偉そうでかしこまっていて、しっくりこない。)
とにかく最近急に夏を感じ始めて、高揚が止まらない。胸が熱くなって、泣きそうになる。本当に、泣きたくなるの。夏に対して。
夏のこの胸の高鳴りと切なさの矛盾が、何とも趣深い。
毎日色んな事に一喜一憂して、先のことを考えて希望を持ったり絶望したりを繰り返して、頭がこんがらがったりして、結局答えの出ない毎日だけれど、今日たまたま見つけた記事に出ていた人がね、「自分の精神の自由以上に大切なものはない」と言っていて、一瞬、何かにフワッと持ち上げられたような気分になった。
時々、誰かの言葉に掬い上げられるような気持ちになることがある。
自分の命、自分の人生だもの、誰のものでもない、誰の為でもない、世間体的にはあれやこれや面倒くさいけれど、自分の好きなように生きて、好きなように死んだらいいと思う。理解されなかろうと、私はとことん自分の意思に従って生き、死のうと思う。思った。今。
返ってこない
私はよく、人に貸したものを返されないことが多い。
誰しもそういう経験はあるのかもしれないけれど、
学生時代別々の友人に貸した本は今だに2.3冊返ってこないし(これはもう永遠に忘れ去られているに違いないのでとうに諦めた)、昔から貸したお金はしばらく返ってこないし(お金は大切なのでこちらから催促する)、この間も職場の人に貸した文具が返ってこないまま、その人は仕事を辞めて行った(大したものではないので、何も言わなかったけれど)。
物が返ってこないという事自体よりも、人から借りたものをきちんと返せない人たちのマナーが気になってしまう。
自分自身も借りたことを忘れたまま返していない何かがもしかしたらあるかもしれないから、あまり大口を叩けるわけではないんだけれど、それでも借りたものは早めに返すようにしているし、お礼に何かしらを付けて返すこともあるし(これは日本人ならではの返し方なんだろう)、とにかく自分の手元にあっても人様のものだと意識するようにしている。
それを、「返すのはいつでもいっか」「なんなら返さなくてもいっか」と思っているのか、管理意識が低いのか、返してくれない人が沢山いる。なんでだろう。どうしてそうなってしまうんだろう。
「そんなことでいちいち」と思われるかもしれないが、「そんなこと」すらきちんとできない人の神経のほうがよっぽどマズイと私は思う。
と、私は長年考え続け、憤り続け、返却能力の無い人には今後二度と貸さないと誓い続け、返ってこないものたちに別れを告げ続け、今日までを過ごしている。
特にお金に関しては信頼関係にも繋がるので自分もしっかりしなくてはと思っていて、次の日会えるのならその時にすぐ返すし、すぐに返せなければいついつまでに返すと伝えておくようにしている。感謝の言葉も忘れずに添える。
と、ここまでは常日頃思っていることなんだけれど、今日新たに気付いたことがある。それは、「ナメられている」ということ。
そう、私はそういう返してくれない人たちから、ナメられているのだ。
「あいつだから返すの遅くてもいっか」「あいつの物なら返さなくてもいっか」と、そう思われているのだ、きっと。
あくまで自分の考えだけれど、これだけ多くの人から物が返ってこないのだもの、もうこれは私自身の人間性の問題としか思えなくなってくるわ。
って、なんで結局自分のせいにせなあかんねん!!!!!!!!!!!これが私の悪いところ!!!!!!!!!!!!!
借りたもんくらいちゃんと返せ!!!!!!!!お前ら小学生の時図書館で本借りたことないんか!!!!!!!小学生じゃなくてもいいけどTSUTAYAとかで漫画とかCD借りたことないんか!!!!!!!これからは私も延滞料金取るからな!!!!!!!!マジで!!!!!!!!!ふざけんなよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
はぁ。ちょっとスッキリした。
自分と話す
何もしない日が来ると、ホッとする。
普段からあんまり色々考え込むのも大変だけれど、ずっと何も考えずに生活していることのほうがよっぽど恐ろしい。
好きな時間に寝て、好きな時間に起きて、好きなときにご飯を食べ、なんとなくテレビをつけてみたり、好きな音楽を聴いたり、好きな作家さんのエッセイを読んだり、好きなアーティストのブログを読んだり、ウトウトしてゴロゴロしてみたり、気になっていた映画を観たり、最近あったことを日記にまとめたり、部屋を少し片付けてみたり、時間のある時にやろうと思っていたことをやったり、そういう時間って、本当に大切だ。
毎日毎日、特に日本人は朝から晩までロボットのように働き、時計のように同じ生活を繰り返し、それを重ねれば重ねるほど、自分というものを失っていく。たまにこうして休みがちゃんとあれば、ふっと取り戻して一息ついて、こんな時代こんな環境こんな暮らしだけれど明日からも頑張ってみっか、と思えたりする。
昔、と言っても最近にも同じようなことを思うけれど、「悲しい」という感情を失うことが物凄く嫌で怖いと思っていたことがある。悲しさなんてそもそも感じないほうが楽だろうし、悲しい事があってもあんまり悲しいと思わないようにしていれば、傷も浅くて済むんだろう。けれど、それを何故か酷く恐れていた時期があった。
たぶん、自分を失うのと同じことだと感じていたのだと思う。
自分というもの、自分という軸から出てくる考え、感情、好み、趣味、表情、言動、行動、その他あらゆる全てのことを、周りの環境や人間関係やあれこれに合わせて押し殺したりごまかしたり無かったことにしてしまったりすることは、自分そのものを殺して無かったことにしてしまうことと同じことだと、そう思っていたのだと思う。
その時はハッキリそうとはわからず、なんとなく怖い、嫌だ、失くしたくない、と思っていたけれど、今日ふと、こういうことかと思った。
誰にでも癖や良くない所もあるし、合わない人だっているし、馴染めない環境だってあるけれど、それでも自分そのものを先ず大切にして、優先して、生きていこうと改めて思った。そのあとに人や環境が付いてきたらいい。ダメだったらダメでいい。
そしてそういう自分と、だらだらゴロゴロしながらでも向き合う時間を大事にしたい。普段狭っ苦しい息苦しい場所に閉じ込められているとしても、今日のようにそこからぬくっと引っ張り出して、自分はこうだな、ちゃんと今日もここにいるな、と確認して、そういうふうに過ごしていきたい。
深夜食堂
『深夜食堂』という映画を観た。
ここ最近、私がずっと欲していた空間が、あった。
なんだろう、あの温かみは。
ホッとしつつも、涙がホロリと落ちるような、心が穏やかになって、洗われていくような優しさは。
まさに、ああいう場所を求めていて、あれやこれや考えていたところだった。だから私は今、とてつもない何か大きな、柔らかくてぽかぽかしたものに、包まれている。
今日はとても穏やかで、よい一日だった。
なんとでもない日だったけれど、それでもいつかの自分の励みになったらよいなと思う。いつかどこかで何かに迷った時、心が折れそうになった時、今日見たもの、感じたこと考えたことが、その背を押せたらなと思う。そうなれる気がしている。
今日を生き抜いたこと、本当に偉いと思う。そしてとてもラッキーだと思う。
いつも思っていることだけれど、一日を生きて過ごせることは、ほとんど奇跡に近い。生きたかろうが死にたかろうが、生きていることは奇跡だ。そしてそれは本当に素晴らしい。
今日もよく頑張りました。
明日も生きていこうね。
時を捕まえる
一年分の砂時計が、日本のどこかにあると、聞いたことがある。
とても大きいらしいんだが、これが一年か、とも思うらしい。
一年分の掛け時計は、どこかにあるんだろうか。ないか。きっとその砂時計よりも、うんとうんと、大きくなければいけない。数学は全くできないし、世界で一番高いビルがどこにあるのかわからないけれど、それにすら掛け切らない大きさなんだろうな。正確に一秒一秒を刻まないと、363日目とか、367日目とかに、針が一周回ることになるんだろう。
時間は、回転寿司のようなものだ。
グルグルぐるぐる回り続けて、次々と色んなものがやってくる。目の前を通り過ぎる約五秒くらいの間に、それを取るか取らぬか決めねばいけない。ただ回転寿司と違うのは、二度と同じ出来事が巡って来ないことと、判断するまでの時間がもっと短い時があるということ。
だから好きな人とは何度だって会ったほうがよいし好きな所へは何度も行ったほうがよい、好きなものを幾らでも食べ好きなものを何回も観て好きな話を延々と続け好きな事を何度だってしたほうがよい。
どれだけずっと好きなことでも、ふと忘れることがある。苛立たしいほどに悲しい。だから好きは何度だって繰り返したほうがよい。そうすべきである。
記憶はあの世へ持っていけないし、思い出も好きな人やものも連れていけない。好きという気持ちさえ忘れてしまうかもしれない。全て叶うのかもしれないけれど、そうでないのかもしれない。
だから今のうちに、出来る限り何度だって、重ねたほうがよい。
と、いうのを随分と前に書いて置きっぱなしだったけれど、読み返してうん確かにな、と思えたのでちゃんと残しておく。こういう日記のようなものは、昔の自分と対話しているようで、面白い。
ゾンビ
・人間の三倍くらいの大きさの亀が、ギリギリ入るくらいの水槽に斜めに(たぶん入りきれていない)入っている夢
・自分でない、全く知らない人になって、全く知らない友人と話をしている夢
・誰か(誰だったか思い出せない)を背負って学校の階段を上る夢
という、見た夢のメモを残して早一ヶ月が過ぎた。消してもよかったのだが、どうもインパクトがあったので消すに消せず、かといってどう処理したらよいかも分からず、てくてくと日は過ぎるのであった、、、、。
(完)
で終わりにできるわきゃないよね〜。そうよね〜。
でももう夢に関して話が広げられないので、今日思ったことを書き留めておこう〜。
どうしてゾンビはどの映画でも、同じような設定なのか?
おお、これやってみたかったのよね。よく色んな人のブログを読んでるとさ、主張したい部分を大文字にしたり太字にしたり、してるじゃない。私もあれ、いいなぁと思ってたのよね。でもトコトン機械音痴だから、どうやるの?の前からメンドクセ、やーらねっ、と諦めていたわけ。どうして今急にやるに至ったかというと、今どうしてもデデーン!と表記したかったからである。しかもすぐできてびっくり。楽しい。
それでそのゾンビがさぁ、どうしてどの映画に出てくるゾンビも、見た目があんなんで、手を前に出していて、ユラユラする歩き方で、そして生きた人間を追いかけて、噛み付いて、そんで噛まれた人間はゾンビになってしまって、ゾンビを殺すには頭をブチ抜くしかないのか。
まぁ吸血鬼が、光に弱くて犬歯が飛び出ていて人間の血を好むのと同じように、それでなければ吸血鬼と呼べないように、ゾンビもそれらの特徴があってのゾンビであって、水中で生活するから魚類だとか飛べる生き物だから鳥類だとか、そういうもんなんだろうけれど、そういうんでなくてさぁ、なんかさぁ〜〜〜、
ゾンビって存在しないじゃん。現実では。
だからゾンビっていうものをさ、どの場面でも統一させなくてもよくない?
今では俊足で超強いゾンビとかも出てきてるけどさ、そういうことよ。そういうこと。どんどん個性出してこ。ゾンビも吸血鬼も。🧟♀️🧟♂️🧛♀️🧛♂️てかこの絵文字超キュートじゃない?
ゾンビについて調べてみたら、本来ゾンビは奴隷として使われる存在らしい。昔のどっかの国では。人を食べたりしないらしいよ。人間の発想って、おもしろい〜〜〜
概念
「外国には肩凝りという概念がないから、そこの人たちは肩凝りにならない」と、前に知人が言っていた。そうして「何にでも名前を付けるのはよくない。鬱病も名前が付いているから鬱になるのであって、名前が無ければその症状に気が付かないんだ」と、その言葉を聞いてホッとしたことを思い出した。彼はいつでもその時々の私に合う、深イイ話をしてくれた。
ただ今日言いたいのはそんな素敵な思い出のことではなくて、私自身にも肩凝りという概念が無かったということである。
ハタチ頃まで、私は肩凝りを知らなかった。というより自分が肩凝りをしていると思っていなかったの。もちろん肩凝りという言葉やその症状は知っていたけれど、自分には無関係だと思っていたし、肩が重かったり筋が痛むようなことは時々あったのだけれど、それはただの疲れだといつも思っていた。
しかしながらある日、同じ症状が起こりいつものようにマッサージをしていたら、その時一緒にいた母に「肩凝り?」と聞かれて、私は「いや、なんか肩が張る感じがして疲れるだけ〜」と答えたのだけれど、そしたら母が「それを肩凝りって言うんだよ」と言ったわけ。その時の驚きとこれを肩凝りだと知らなかったこの数年間を思った時の呆れ具合を、今でも覚えている。無知というより、単純にバカだった。
と、いうわけで今では肩凝りを知ってしまったので、たま〜にあ、肩凝りキタと思うことはあるけれど、やはり冒頭の彼の言葉を思い出して、なるほどな〜と、肩が凝る度に少し考えてしまう。
何でも知っていりゃあいいというものではないのかもしれない。