セルフ・コンフィデンス
思えば、小さい頃から自分に自信を持ったことがなかった。
一瞬の、ちっぽけなものならあっても、容姿、性格、知能、身体能力、特技、その他自分を取り巻いているものにまで、何か胸を張って人に自慢できるようなものが、なかった。
日本人らしいと言えばそうなのかもしれない。恥の文化、謙虚な姿勢、よく言えばザ・日本人ということなのかもしれない。
けれどそれって、物凄く残念。
自己主張の激しい人はあまり好きでないし、自信家すぎる人も得意ではない。
ただ、外に出すでもなく、自分の内に秘めておくだけの、秘める必要もないのか、自分で満足できればそれだけでよい、そういう自信は絶対的に必要だ。と、この歳にしてやっと気が付いて、あぁこれまでなんていう生き方をしてきたんだろうと、ちと悲しくなる。
過信するのもよくないけれど、うまい具合に、自分を認めて、自分に自信をつけて、自分を好きになれたらよいなぁ。素敵な人生を送りたい。誰がどう思おうと、私の人生サイコーハッピーサンキューサンキュー!ってかんじの、素晴らしい人生。
今日は天気が良くてよかった。
いつにも増して鳥がピヨピヨうるさい。
元気なことはいいことだ。
明日に向けて、今日も生きるぞー
優花
寂しい。
夜は寂しい。
酒と煙草と音楽で、紛らわす日々。
あー!寂しい!
体に悪かろうが寿命が縮もうが、そんなの知るかー!明日の夜まで生きられる100パーセントの保証などないのだ!私は生きるよ!
にしてもどうにも、三半規管が弱くて参る。
近頃は半規管と言うらしいとかなんだとか、聞いたようなそうでもないような。
毎日ずっとコーヒーカップでもぐるんぐるんに回して乗っていれば、強くなるもんなのかしら。そんなの知らんわー!私は生きるよ!
今日は早く寝よう、と毎日思いながら毎日夜更かし。
23時には寝よう、が、0時には寝よう、が、どうやっても過ぎてしまう。眠たくないと眠れない。ふくろうの気分。ふくろうもこんな気分?
人間は昼行性なんて、誰が決めたのかしら。
習慣もあるだろうけれど、私は根っからの夜行性だ。と、ずーっと、思っている。
世の常の上で生きられないのは、ちぃと辛い。
旅に出たい。
近くだっていい。
旅だと思えるところならどこでもいい。
この、毎日の、閉塞的な、刑務所みたいに思えるような、ところから、えいやっと飛び出して、私は、旅をしたい。
本当はなんだってできるのだ。
なにもかもすべて、自分の支配下で、だから本当は、どうにだってできるのに、何をこう、シュンっとなって、体育座りをして、生きているのだ。
このまま、六畳一間の長四角い箱の、静かで真っ暗い空間の中で、死んでたまるかー!
という、酔っ払い。
今日も生かしてくれてありがとう、生きていて偉いぞー、明日も生きるぞー
ラッキーセブン
落ち込む。
こんなに落ち込むのは、結構久しぶりで、怒りの後の悲しみの後の虚しさを抜けて、ボーッとしてしまう。
ちょっと前までだったら、もうそれはもう、泣いて泣いて盛大に泣き喚いて、本当にお先真っ暗といったかんじ、明日の楽しみさえ闇に葬られて途方に暮れて、酒に八つ当たりして当たり返されて、グラングランに酔って吐くまで飲んで、泣きながら意識が朦朧としたまま眠って、結局翌日も二日酔いで、なーんにもいいことがなかった。
少し大人になったと認めてやろう。
上のひと幕をしないだけマシになった。
たぶん、人生の、というよりももっと頻繁に、日常生活の中の大まかな括りの中で何度か、裁かれているのだと思う。神だか仏だか先祖だか、未来の自分になのかはわからないけれど、そういう私の全てを知っている人物が、ある一定の期間ごとに、私を審判している。
よい生き方をしていれば褒美を、よろしくなければ罰が与えられる。
今日はきっと、満場一致で不可だったんだろう。あー、あれやこれや討論している様が頭に浮かぶ。全員が不可の札を挙げている様子も。
物事は何でも考え様だ。
作り話でも何でもいい。
いかに自分を飼い慣らして生きていけるか。
いかに自分だけのこの生活を豊かにし、自分にしか生き得ないこの人生を幸福にするか。
今日はちぃとツイてなかっただけだ。
おお神よ仏よ先祖よ未来の私よ、
今日はちっと反省して、また明日からがんばります。次の審判には負けないように。
私の中のジンクスで、悪い事が起こったあとは同じ度合いの良い事が起こる。考え方を変えればむしろラッキーなのである。
バッチコーイ、幸福!
全力で受け止めるぞーーー!
よーし、お腹が空いてきた。
食欲があればなんでもオッケーだ。
昨晩のこと
夜、たまに、別の世界に行けるんではないかと思う時がある。
幽体離脱みたいな、夢の中のような、そんな感じの、世界なんだけれど、大抵はお酒を飲んで煙草を吸って好きな音楽を聴いている時、そしてちょっと寂しくて虚しい時、そんな時、もしかしたら自分の中に潜在している特別な能力を使えて、それでこことは少し違った、クローンみたいな、A'の「'」みたいな、鏡に映った自分みたいな、同じようで少し違った、そういう世界に、行けるんではないか、今日の夜はそこに繋がっているんではないか、と、思うことがあるのです。
世界は、というより宇宙は、人間の計り知れる範囲よりも優に超えたところにある。はずだ。そうに違いない。だから、私が想像するよりももっと、色んな事象が起こって、私の知らないうちに終わっていく。そうなんだろう。
そう思うとね、まぁなんでもいっか、と、極論そう思うのである。46億年の地球の人生、地生?に比べたら、みたいな考え方で、いやぁそんなこと言ったって私のこの80年続くはずの人生は地球にとっての46億年と等しく劣るものではないのだけれど、なんかさぁ、よい意味で大らかになれる。ありがとう地球、偉大なる地球。
最近考えるという行為をすることがガクンと減ったけれど、それは良くも悪くもあるけれど、その間にも色んな人と関わって、新しい人とも沢山会ったし、尊敬できる人たちの話も沢山聞いたし、それでも自分の中の核は失いたくないという意地は持ち続けているし、川の中の石ころみたいに、水に押されながら、ちぃと流されながら、角を削られながら、実は自分の行きたいところへ連れて行ってもらっていたり、うまいこと丸めてもらっていたり、そんなことをしながら、結局何が言いたいのかというと、もっと自由でいいのだということ。私が最大限に私でいられる生き方をすべきだということ。
神がいない
十月。
時の流れが速すぎて、追いつけない。
早朝の、人気の少ない電車の、音が好き。
人間がまだ寝惚け眼の中、電車だけがシャンとして、静かに走っている。
山や近くの木や草が、赤く黄色く染まりかけている。空気が澄んでいて、風が優しい冷たさをしている。
電車の行く先のように、私の行く先もはっきりと決まっていたらよいだろうか。
十年後の自分が今の私を見ていたとしたら、何を焦ってるんだと微笑むのだろうな、と思う。そう思えるくらいの心の余裕が出来てきたということ。急ぐ事はない。あまり先を見過ぎて今を見逃してしまっては勿体ない。
ふぅ。
朝は気持ちが前向きになる。
今日のように清々しい朝は特に。
素敵な一日が始まる~~~!
八月
八月。
深夜でも三十度を超える真夏。
空気はモワモワ、肌はベタベタ、紫外線もバチバチ、誰かが「概念上の夏は好き」と言っていて、あ~、確かにクーラーのある涼しい部屋から入道雲を眺めたり蝉の声を聞いたりするのは好きだな~、と思ってしまったけれど、やっぱり私はモワンモワンでベッタベタでバッチバチの夏の中にいるのが好き。
仕事を変えてから、規則正しい生活を送っている。以前は何もない休みの日など寝休日が当たり前だったけれど、今や仕事の日よりも早く起きてしまうようになった。ザ・健康。
実家の留守電に、近所の人からの「獲れたキュウリをいつものところに置いておきました。よかったら食べてください。」というメッセージが入っていた。じんわりしてしまった。ここは本当に素晴らしいところだと思う。今のネット社会、(による直接的な人的コミュニケーションを避けた)孤独社会が進む中で、こういう少し原始的なやり取りがあると、ホッとする。私も結局親世代に比べたら人との距離を取り気味だけれど、やっぱりこういうコミュニケーションは大切で、素敵だなぁと思う。
終戦から73年。
毎年少しずつ、戦争経験者の方たちが減っていく。毎年その方々の体験談や、それに基づくドラマやドキュメンタリーをテレビで見聞きするけれど、その度に喉が詰まって悲しくなって、絶対に忘れてはいけないと思うけれど、結局未経験者の私たちには、雀の涙ほどのことしか分かり得ない。だから、経験者の方たちがこの日本から、この世界から、完全にいなくなってしまったら、その時を考えると本当に怖い。
そうして今年もまた、私は今日を生きたことに感謝する他ないのである。私なりに、73年前の広島に、長崎に、その時代を生きた人々に、想いを馳せてはみるけれど、なんとも無力に思えて、結局はここにこの命があることに、精一杯感謝をして、明日も生き抜いてやるぞと、踏ん張るしかないのである。
私をこの世に導いてくれたご先祖様には、頭が上がらない。有難い限りです。
最近、毎日闘っている。よい意味での葛藤。
と、いう独り言を、また八月に残してきてしまった。いつも頭の中は散らかり放題。
部屋の物の配置を少しだけ変えたら、気持ちも少しだけ新しくなった。
今日は今日の風、明日は明日の風、見えないものほどしっかり感じ取っていたい。
9月7日
死を、深い意味でなくて、悪い意味でも失礼な意味でもなくて、近くに感じる、と言っている人がいた。
私もそうだなぁと思う。
実際には、程遠い。
死というもの、本質、恐怖、悲しみ、そういうものは知らない。
けど、いつでも死にたいと思うし、楽しい時も悲しい時もそう思うし、死にたい訳ではないし、むしろ死にたくもないし、毎日が楽しくて、日々の少しの幸せで十分希望が持てるし、未来が楽しみで、だから本当に、遠い。
ただ、仕事の後に、部屋でひとり、なんとなくテレビを付けて、楽しい映像を見て、悲しいニュースを見て、お酒を一缶飲んで、煙草を一本吸って、好きな本を少しだけ読んで、好きな音楽を聴いて、しばし考え事をして、夢を見て現実に戻って、明日の事を考えて布団に入るまでの間、私は死にたくなる。
良い意味でも、悪い意味でもない。
星を見て綺麗だなとか、外に出て暑いなとか、ご飯を食べて美味しいなとか、そういう感覚と似ている。ふと自然に出てくるような、感情。
色んな人の色んな生活を見ていると、色んな事を考えるけれど、自分を生きられるのは自分しかいないんだなと、当たり前だけれど実感する。
だから精一杯生きようとか、誰かれの分まで生きようとか、時間を無駄にしないようにしようとか、社会に貢献しようとか、生まれた意味をちゃんと見つけようとか、価値を大切にしようとか、そういうことを思うわけではない。
ただ、私は一人で、この命はひとつで、この人生は一本しかなくて、そういうものがこの世界に何十億とあって、と、よくわからんことを思う。
結局もう少ししたら意識を手放して、明日になれば今日と大体同じような生き方をして、そういう毎日を何百回も繰り返していくんだな、とかなんとか思って、特にこの頭の中には大したものはなくて、それでも少し、取っておきたい。