湯たんぽ

 

 

一日中、旅行の事を考えていた。

旅はいいね、計画している時からもう旅なんだもん、いやぁもう、その地のことを考えた時から旅というのは始まっているものだ。

 

せっかくいい気分だったのに、テレビを点けると嫌なニュースがやっている。情報社会ってこんなに恐ろしかったっけ。

嫌だなぁ嫌だなぁ、悲しくなるなぁ。

自分とは全く関係ない事に、関係してたってどうせなんにもできやしないのに、偉そうに心を痛めている。バカヤロウ。

 

 

「上手な生き方」なる本を3冊読んでみたけど、わかったような、わかんないような、こんなの読んだって結局は自分次第だけど、読んだ時間は無駄に思わなかった。

 

 

外で音が鳴っている。

たぶん雨だろう。でも雨よりは雹のような音がする。雹なんてほとんど見たことがないな。でも窓は開けない。カーテンも開けない。暗くて何にも見えないから。それよりも寒い。

 

 

 

 

今日も生きられて本当によかった。

明日もきっと、いい事が起こる。

 

 

冬は雪

 

 

嫌いな人の事を、実は羨ましいと思っているのかもしれない。

 

けれどやっぱり嫌いだと思うのは、その人がどんな人であれ、どれだけ愛される人間であろうとも、私にとっては害のある生き物でしかないということ。

 

 

戦いたい訳じゃない。

出来る限り別の世界で生きていたい。

 

世界はひとつじゃない癖に、時々無茶苦茶に一緒くたにする。

 

 

 

秋は月

 

 

今日はとても穏やかな一日だった。

こんな日は滅多にない。

 

すべてが水平なのだ。

波一つ立たない海の上で、温かな太陽の熱を浴びながら、小舟に乗っている。そんな気分なのである。

 

とても素晴らしい日だった。

 

 

けれど私は今日も、人を殺している。

毎日平和を掲げた顔をしながら、心の中では毎日、殺戮を行なっているのだ。

 

目に見えないものなど結局何も見えないのだと思いながら。

 

 

 

来世も現世も

 

 

私は生まれ変わったら、大樹になりたい。

奥の奥の森の奥の、人間が誰も立ち入れないような、厳かで、清らかで、穏やかな静けさに包まれた場所に、ひっそりと、しっかりと、立っている、大樹になりたい。

 

地震で八つ裂きにされることのないしつこい根と、嵐に吹き飛ばされることのない頑丈な幹を持ち、枝先には豊富な実を生らせ、夏には木陰となる葉を、冬には暖を取る蔵を、そして色んな動物に囲まれて、柔らかく、暮らしたい。

 

 

 

昔、眠れない時に聴く最初の曲は決まって、RADWIMPSの『25コ目の染色体』だった。

 

不安な時、勝負事の前、緊張している時、心を落ち着かせる為に聴くのもやっぱり、そうだった。

励ましの曲でも、アゲアゲの曲でも、なんでもないけれど、なんでかこれが一番落ち着いた。

 

 

今だにこれを聴くと、暗闇から薄明るくなっていく窓の外の景色を思い出す。夏はそれが早く、冬は毛布に包まりながら、ずっと、ボーッと空の色が変わっていくのを、見ていた。

 

 

 

この命の飼い主は自分だ、と思う。

勝ち負けではないけれど、でも、負けてたまるか、と、思う。

 

 

 

君は幸せ者

 

 

部屋で一人、好き勝手お酒を飲んでいる時、至極だと思うことがある。

 

好きな映画を観て、好きな音楽を聴いて、好きな本を読んで、今日のことも明日のことも考えずに、好きな旅人の一節みたいに、今を旅している時、これが極楽だと思う。

 

 

テレビを見ていて、自分の腹を痛めて産んだ子供を虐待、最悪の場合殺している親や、不可解な交通事故、自然の恐ろしさ、人間の精神的な弱さや身体的な弱さ、色んなものを見て、悲しくなる。

 

それでも、自分はツイていると思う。

今、生きているから。

生き残っているから。

 

自分の意思と、この命と、別の部屋にある気がする。

運だけでも上手くはいかないけれど、それでも、なんであれ、今、今日、生きていることは、とても幸運なことだと思う。

 

 

死ぬことはいつだってできる。

死ぬ権利は、自分自身が死ぬ権利は、唯一自分にあると思う。

それまでは、運に任せても、気で乗り切っても、なんでも、生き抜こう。

 

 

私は今、とってもハッピーだ。

 

 

 

イキガミ

 

 

NHKかなんかの、不登校の高校生くらいの子達の、ドキュメンタリーを観ている。

 

各々、何らかのきっかけで学校に行けなくなって、枠から外れてしまって、戻りたいと思っていても戻れなくて、そして共通して意識は死に向かっている。

 

 

あぁわかるなぁ。

よぉくわかるよぉ、と思いながら、(ちょいと酔っ払いながら、)見守っている。

 

 

日本は特に、そういう国なのかもしれない。

一律性、大衆、マジョリティ、皆と同じである事が正しい事で、そこから一歩外に出てしまうと、悪者になりかねない。

そういう境目で迷ってしまうと、この日本で生きていくには生き辛くなってしまう。

 

 

私は少し大人になって、彼らの悩みを見ていると、「大丈夫だよ、皆と同じでなくていいんだよ、むしろあなたはとっても素敵だよ」と、言いたくなってくる。そんなこと言われてもうまく生きられない彼らの気持ちもよぉくわかる。

 

 

私も今だに、実は、死に向かいながら生きているんだ。

死なないように、死にたいと思わないように、時折自分を誤魔化しながら、生きている。

これが正しいのかはよくわからないし、前より色んな事をぼやかすようになったし、何が一番なのか、やっぱりわからない。

 

 

人混みの中にいると、自分がここに存在しているのかわからなくなることがある。それで、透明人間になったつもりで闊歩してみると、とても清々しかったりする。

 

生きるのに価値などなくてもいいと思う。けれど価値を最重視するようなこの場所では、とても生きにくい。

 

 

大人になった私は別として、未成年の子たちなんか絶対に、周囲の大人の援護が絶対的に、必要だ。彼らなんて、産まれたての子鹿みたいなもんだから。いくら大人びている子だってなんだって、子鹿は自力で足を震わせながら立ち上がるだなんだと言われたって、うるせぇなんであったって、そうなのだ。

 

 

立派な大人になりたい。

地位も名誉も金も、要らない。

あれば力になるけれど、それらがなくとも、ない場所で、立派になりたい。

今までは守られる側で生きてきたけれど、これから少しずつ、守れる立場で生きていきたい。

 

なんだか初めて、そんなこと思ったかもしれないなぁ。(酔っ払いも含む)

 

 

 

 

 

即身仏

 

 

というものを知った。

前にも聞いたことのあったような気もするけれど、何にでもタイミングというものがあるなぁと改めて思う。

 

気になってインターネットでササッと調べて事実かどうかの確認もせず鵜呑みにした情報(調べものをする時の文章を読む行為があまり得意でない)かつ概要だけを把握して自己解釈したものなので、正しくはわからないけれど、とにかくその即身仏という存在が、言葉にできぬ凄みを持っているのである。

 

 

簡単に言うと、お坊さんが、世の安泰の為に、あるいは自身の死後の為に?、最後の最後まで読経しながら亡くなっていく、その亡くなったお坊さんを即身仏というらしいのだけれど、その最後に向けた修行というのか?それが凄まじいのだ。

 

まず、通常の食事から徐々に量や種類を減らしていき、体から余分なもの(脂肪など)を落としていき、そのうち摂取するのは塩と水のみになり、いよいよ終盤に向かう頃になると、地下に作られた、座禅を組める範囲のみの、もはや棺のような所へ閉じこもり、水と空気のみを送る筒だけが通され、あとはそこでひたすら、読経をするのだそうだ。

 

毎日決まった時間に鈴を鳴らし、地上の者はその音で生存を確認する。音が鳴らなくなると亡くなったと見なされ、一旦地上に出された後、(何らかの処置を施して)また、地下に戻されるのだとかなんだとか。

それからまたおよそ三年、地下から引き上げられた時に、ミイラの状態になっていればめでたく(?)即身仏と呼ばれるらしい。(人間の形を留めず朽ち果ててしまったものは、無縁仏として供養されるのだとか)

ミイラが予め脳味噌や内臓を取り出され薬剤で防腐処理をされるのに対して、即身仏は時間をかけて自然に乾燥していくので、実際この二つは別物とされているらしい。

 

 

インターネット上で実際の即身仏の写真もいくつか見たけれど、不思議なことに、これまで見たことのあるミイラとは違って「怖い」「不気味」といった感情が湧かなかった。威厳や、尊さというものを、先ず感じたのだと思う。

 

 

 

私の人生からしたら到底考えられない行為、仕組みであって、調べた時には本当に衝撃だった。

 

どんな世にも人の為に命を削っている人がいて、精神の奥底から平和を祈っている人がいて、あぁ素晴らしいなぁでは片付けられない。片付けてはいけない、と思う。

 

 

皆、平和を願っているはずだ。

痛み、悲しみ、苦しみ、争い、差別、事件、そういったものを心の底から望んでいる人などいないはずなのだ。そんなことは誰だって知っている。

それでも、弱い生き物だから、平和よりも先ず自分が大事だから、そういう時、正当防衛的な矛盾が生まれて、少し歪みながらも正常に世界は動く。

 

 

何の事を言っているのか、自分でもわからなくなってきたけれど。

 

 

毎日みんな、色々な悩みを隠し持って、強みを盾にして、頑張って生きているなぁと思ったこと。

たぶん連結していないけれど、今日一日であれこれ考えて考え着いた先が、そういうことだった。

 

 

 

明日も精一杯、生きよう。