シンデレラ
真っ直ぐなものは美しい。
真っ直ぐなものを見ると涙が出る。
いつのまにか自分が、グニャグニャと曲がってきてしまったことにハッとして、きっとその醜さに涙が出る。
聖人のように、生きられたらどれほど素敵なことだろうか。
自分という認識がある限り、どうしたって自分を中心に生きてしまう。
世の中が、あらゆる人間や動植物や生きとし生けるもの、地球や宇宙にあるもの全てが、平和であったらよいと心から思うけれど、結局は我が世、天秤に掛けたら宇宙なんてすっ飛んでいってしまうんだろう
無意味なことをずっと考えている。自分の中で底尽きるまで考えると、目眩がしてくる。脳が、もうやめてくれと、訴えている気がする
間違っていることなんてないのだと思う。正しいことも。
好きの頂点
好きの頂点は、無敵だ。
何かを好きだと思っている時、言葉にし切れぬ幸福感に埋もれる。
誰かを好きな時、何かを好きな時、好きな人と一緒にいる時、好きな音楽を聴いたり好きな本を読んだりしている時、好きな色の服を着ている時、好きな言葉に出会った時、好きな雲が流れている時、好きなことを好きなようにしている時、そしてそれらを改めて好きだと思う時、涙が出るほど幸せだと感じる。
その分、好きが崩れて無敵が頂点から落っこちる時が怖い。
好きなものを好きでなくなる瞬間には気が付きにくいけれど、それに気付いて好きだったことを思い出すと、寂寥感というのか、なんなのか、とにかく私はアレが駄目だ。
好きなものを好きでなくなるのは悲しい。
逆もまた然り。
逆の場合は人のみに限られるけれど、自分を好いてくれていた人が、離れていくのは寂しい。一時でも好いてくれたことはとても嬉しいけれど、離れていく寂しさよりは大きくない。
それ故時折、一定の距離を図ってしまう。山岳家が登山から下山へと変わる前に、天に向かって投げたものが落ちてくる前に、私は逃げ出したい。
いつまでも、好き続けられればよいのになぁ、一度好きになったものや人を。とても幸せだろうになぁ。
心を亡くす
最近よく思い出せない。
誰と何を話したとか、誰に何を話しただとかが、思い出せない。
確かに誰かと話をしたし、確かに誰かに話をしたんだが、どうにも思い出せない。
悪い話なら構わないけれど、「楽しかった」という思い出だけが残るのはちっと寂しい。ちゃんと具体的にどう楽しかったまで、覚えていたい。
同じ人と同じ会話を三度くらいせねば、駄目なのかもしれない。
忘れるというのは恐ろしい。
「忙しい」は心を亡くすと書くけれど、「忘れる」も心を亡くしている。どちらも似ているけれど、だいぶ亡くすの意味が違うように思う。忘れるほうが怖い。
いつかは死ぬ、と思うとなんでもよい気がしてくる。
色んなことを考えて、どうにもならない時は、そのうち死ぬもんなぁ、と思って考えるのを止める。
特に、不穏な意味はなく。
人間到る処青山在り
世界は広い。
と、ちっこいテレビを見る度に思う。
世界から見たら自分はアリだと、知人が言っていたことがある。勿論アリにもアリの人生があって、きっと私なんかより何百倍も充実した生活を送っているに違いない。単にサイズの話である。
最近のテレビはあまり面白いと思わずなかなか見る機会は無いけれど、それでもテレビのおかげで知る事は多い。
そうして少し世界を知ると、自分がいかに幸福の域に居座っているのかを知る。
それでも下を見てばかり、
下を見て優越感に浸れるのならばよいけれど、そういう時ばかり上を見て落ち込む。
人間到る処青山在り、という言葉を、ほんの数日前に知った。
死ぬところは何処にでもあるという意味らしい。
何だって自由だ。
実に、世界は広いのである。
HP
辞書に憧れていた。昨日まで。
言葉を何でも知りたくて、ありとあらゆる言葉と表現を知ることが何よりも素晴らしいと思っていた。
言葉では表し切れないことは沢山あるけれど、それでも知っているに越したことはない。辞書になりたいと、ずっと思っていた。
が、知らないほうがよいこともあると、尊敬している人が教えてくれたのである。
人間は自分の感情や存在や人となりを何でも言葉に当てはめたがるらしい。
そうできたほうがよいと、私は思っていたんだが、どうやらそれで自分をがんじがらめにしていたらしい。
偉大だ。
新しい見方を手に入れると、ちょっぴり強くなれる気がする。ゲームの中でキャラクターを強化させていくような、感覚で。
おばちゃん
長期記憶というものがある。
住所や携帯番号、人の名前や地名等は、繰り返し覚えることによって長い記憶になる
時折、脳の均衡が崩れて、長期側に入っている記憶が、零れ落ちることがある。
以前、5〜6年使い続けている携帯番号を一時間くらい思い出せないことがあった。そのくせ、その前に使用していた番号ばかりが浮かんでくる。
最近あまり季節や月を意識していないので、3月の次を2月だと思ったり、冬が終わったのにまた冬が来ると思っていたりする。
この前小学生の頃に少しばかりお世話になった人と偶然会ったのだけど、まるで相手が嘘を吐いてるかのように、私の記憶には一切無い話をされた。
酷く久しぶりに級友に会った時、当時彼らのことを何と呼んでいたのか忘れてしまって名前を一度も呼ばずに別れたこともある。
脳の中には掃除のおばちゃんみたいなのが居て、長い間思い出されないでいる記憶は「こんなのもう使わないでしょ!」と捨てられてしまうのかもしれない。
それでもパソコンのゴミ箱みたいに二重になっていて、完全に捨てられてしまうわけではなくゴミステーションのようなところに溜められて、物凄く久しぶりに記憶を呼び起こす時には、やっぱりそのおばちゃんがゴミ箱を漁って、やれやれと思いながら探し出してくれているんだろう。
私も歳を取るし、おばちゃんも歳を取る。だから記憶の操作も徐々に出来なくなっていく。
居るかはわからないけれど、ありがとうおばちゃん。
プラマイゼロ、むしろマ〜イ
というネタをする芸人がいたけれど、
まさに、プラマイゼロはむしろマイだ。
同じくらいの良いことと悪いことがあった時、衝撃が強いのは悪いほうだ。(※個人差があります)
いや、本当に個人差はあって、良いことのほうが強い人だってそれはそれはいるだろうけれど、激甘スイーツと激辛ラーメンを交互に食べたらどちらが強いかって、そらぁ辛いほうに決まっている。ていうか何かの番組でやってた。激甘vs激辛。激辛の圧勝だった
私のイメージはそれと同じで、正の感情よりも、負の感情のほうが強い。あ、根暗なだけなのかな。あっ、えっ、あっ、そういうこと?えっ?
結局個人差があるわけなんだが、
プラスマイナスゼロ(±0)になる時って、おそらくたぶん、プラスの要素が多い。{(+1)−1}がゼロになるんではなくて、たとえば{(+3)−1}や{(+7)−4}がゼロに等しいのではなかろうか、ということなのである(ふむふむ)
たとえば、他人に同じレベルくらいで一度悪口を言われるのと、一度褒められるのでは、確かに褒められて嬉しい気持ちはあるけれど、悪口が残る。だから、三度くらい褒めてもらわねばいけない。困る。褒めて。
(おわり)