光陰矢の如し

 

 

本を読むと落ち着く。
テレビを観たり誰かと話したり、寝ることよりも、落ち着くのかもしれない。

 

 


伊坂幸太郎の、『ラッシュライフ』という本を読んだ。

 

時間のある時にチマチマと、約二ヶ月かけて読み切ったのが一ヶ月くらい前のことなので、結局三ヶ月ほど前に遡るわけであって、それゆえ話がところどころ零れ落ちているのだけれど、とにかくひたすらに驚いた。

 


何から書き留めよう。
伊坂さんは、きっと本当に頭が良くて、辞書のように言葉を沢山知っていて、けれど辞書と違って想像力とユーモアに長けていて、そうして表現力が物凄い。この本の、一ページ目から最終ページまで、漏れなく魅力尽くめで、伊坂さんの使う言葉ひとつひとつ、を絶妙に組み合わせた文章ひとつひとつ、が生む場面ひとつひとつ、に、何度もときめいていた。何度もハッとして、特に気に入った箇所なんかは何度も文字を追い直した。

 

 

伊坂幸太郎氏の著書は、五冊程しか読んだことがないけれど、それも何年か前になるので、よくは覚えてないけれど、それでもやはり衝撃を受けたことは確かで、けれどこの『ラッシュライフ』は、格段に衝撃的だった。


登場人物や風景は至って普通なのに、その描写や背景が秀逸で、こう、なんて言えばよいのかな、とにかく私は物凄いものを手に入れたような感覚でいる。

 

何が凄いって、この本には脇役がいない。脇台詞のようなものもない。出てきた人物や会話が全て必ず、後に繋がっていく。

終盤になってやっと物語の構成が自分の頭の中で成り立ってくるのだが、それさえもきっちり計算されているのがわかる。私の勘が鋭くて話が繋がった訳ではなくて、彼が意図的に、私を操作して、個々だった話を一つにまとめ上げさせているの。それも見計らった頃合いに。絶妙に私を、コントロールしているのよ。

 


映像で観たいなぁと思った。バラバラに進んでいた個々の話がひとつに繋がった時の、その一連のひとつの話を映像として観たら、それはまたきっと、素晴らしいに違いないんだろう。小説とは違う驚きやワクワク感が、あるんだろう。と思ったら、映画もあるらしい。酷く観たい!

 


けれどこれは、小説になるべくしてなったのだ。小説以上によいものはないというか、つまり、物凄く、小説的で、素敵だなぁと、思い、今だに感極まっている。

 

 

 

P.S.

小説の最後にある、解説について、思うことがある。解説の付いている本と付いていない本とあるけれど、解説が付いている時、その解説にも重要度があると思うのよ。解説も含めての、小説だと思うわけよ。物語の解説を上手くしろとは言わないけれど、解説を任された以上、その小説や著者に対する思いだけは真っ直ぐに、なるべく上手に、説明してくれ、と思ってしまう。もう本当に誰だよお前ってかんじ。アタイ。これまでは全く気にしていなかったけれど、この前初めて、苛立ってしまう程薄っぺらい解説を読んで、げんなりしてしまった。

 

解説が陳腐だと、どんなによい小説も、勿体無くなってしまう。それでもって、この『ラッシュライフ』の解説者が、それはそれは素晴らしくて、私が逃した場面の説明やフォローはもとより、作者の意図や私がこの小説を読んで感じたことを、透視するかのようにスッと語るの。この人もまた、頭脳明晰で、本だけでない、ありとあらゆる物語という物語を知っているんだろうね。見たものや読んだもの、相手の思考回路まで、どう外に表せばよいか、よく知っているのだと思った。とにかく気圧された。

 

 

 

 

 

という日記を、二ヶ月程前に書きっぱなしのまま、放っておいた。要するに私がこの『ラッシュライフ』を読み始めたのは五、六ヶ月前ということになる。時の流れは本当に速い。そしてこんなにも長いP.S.を初めて使った。感動。人生変わった。生きててよかった。

 

 

 

夏はまだかね

 

 

本当に幸せな時って、一生に何回あるんだろうか。


人それぞれなんだろうけど、たぶん、平均したら10回もないんではないかな。知らないけど。

 

 

これが何度目の、本当に幸せ、なのかはわからないけれど、確かに昨日は、ザ・本当に幸せ、の日で、軽くパニックが起こった。幸せのパニック(は?)

 

 

本当に幸せな時は、どうしたらよいのかわからない。何処へ、どうこの嬉しさを表現すればよいのかわからない。しまっておくのは酷く勿体無い。

 

 


最高な時は最低な事を考えられるんだなぁ、と、思った。
不謹慎にも、あぁ、これで今もう死ねる、と思った。死にたくないけど。

 

あまり死の話をすると、死が追い掛けて来るような気がするので、これくらいにしておく。でも本当に、最低な事を考えられるほど、最高だったのよ、昨日。

 

 

こういう日が、毎日なんて贅沢は言わないけれど、よい間隔で、やってくるとよいなぁ、幸せは自分の手で掴みに行くもの、とは言うけれど、勿論それでしっかり掴み取って来られるなら本望、なんにせよ、いつだって幸せでいられるとよいね。

 


美味しそうなおかずの香りだけで白飯3杯はいける、みたいな表現があるけど、私は昨日の幸福の余韻で、あと3日くらいは乗り越えられると思う。どんな至難がやって来ようとも。でも来ないでね。ラブ&ピース。愛してるよ。

 

 


あれだけ長いと思っていた4月が、挨拶もなく終わった。薄情者。5月を夏だと思っていたので、いやまだ春なんか〜〜〜い、という気分。裏切られた気分。

 

何かの変わり目は、ほんの少し、ピシッとする。本当に、少しだけ。女子の、「ねぇねぇ〜、今日なんかアタシいつもと違くなぁ〜い?実はマスカラ変えたのぉ〜♪」くらい、小さく。いや知らねぇよ、知ってても知らねぇよ、昨日も今日も黒じゃねぇかよ。

 

 

みたいな?

 

 


5月はなんだか早いな。もう一日が終わる。その調子で駆け抜けなさい、早く夏を連れてきなさい

私は無宗教

 

 

許すというのは難しい。

許すというのは勇気が要る。
許すことは自分に負荷を掛ける。
本当に許せているのか。
許すとは、何か。
私は許しているのか。
そして、許されているのか。

 

 

 


有名な作家の有名なワンシーンに出てきそうな一節だね。ね。(ウィンク)

 

 

 

 

 

試されている気がする。
度量や生き方を、天井で賭け事でもされながら、試されているのかもしれない。

 

お前にはこれが許せるか、お前にはこれを受け入れる寛大さがあるのか、お前は一体どんな生き方をするのか、と。酒つまみ片手にでもベットしているんだろう。

 

 


神は凄い。
都合の良い時にしか神を信じないけれど(どうかこれを読まれていませぬよう)、神は偉大だ。

 

神は何でも知っているし、平等だ。
神は万事を許す力を持っている。
裁くのは任務であるだけ、本当は何だって受け入れてくれる。

 

 


これ以上神について話すと一週間後には怪しい宗教団体に目を付けられ一ヶ月後にはその宗教団体に入り、一年後には立派な団員となって三年後には主力に、五年後には教祖の右腕となり、二十年後には己が教祖となって新たな宗教団体を立ち上げるまでになるのだろう。やぁおぞましい。

 

 

 

相手を鏡だと思えたらよいのだけれど。
あなたは私、あなたも私、君も君も、あっ、やぁ、君も、あっ、今日もいい天気だね、君ってつまり、私、
みたいな。

 

 

 


みたいな。

 

 

 

 


 

 

 

 

許すことが正しいわけではない。
それでも全てを飲み込めたらよいなと思うし、私も全て許されたい。飲んでくれ。私を。消化してくれ。灼熱の胃液で。

 

 

 

 

ピー・エス
私は無宗教です
(全国の宗教団体に告ぐ)

アルコール

 

 

お酒を飲んで、飲んで飲んで、翌日のことをちょっぴり気にしながら、それでも飲んで、黄金比というのか、丁度よいところに来ると、うまい具合に蒸発できるのではないかと、思う。

 

アルコールだけに(?)、蒸発して(?)、消えてしまえるのではないか、と思う。

 

特に暗い意味ではなく、まぁいい意味でもないかもしれないけれど、風が吹くように、太陽が地を照らすように、ごく自然な思いで、そう思う。

 

 

酔っ払っているので、何を言いたいのか、よくわからない。

 

けれど、少し理性を欠いた時のほうが、重大なことを知る気がする。今はよくわからないけれど。

 

 

終わってほしくない瞬間がある。
今が、少し、そうかもしれない。
自由で、安堵できる、今、これが、永遠でなくとも、もう少しだけ、続けばよいなと思う。

シンデレラ

 

 

 

真っ直ぐなものは美しい。

 

真っ直ぐなものを見ると涙が出る。
いつのまにか自分が、グニャグニャと曲がってきてしまったことにハッとして、きっとその醜さに涙が出る。

 

 

聖人のように、生きられたらどれほど素敵なことだろうか。
自分という認識がある限り、どうしたって自分を中心に生きてしまう。

 


世の中が、あらゆる人間や動植物や生きとし生けるもの、地球や宇宙にあるもの全てが、平和であったらよいと心から思うけれど、結局は我が世、天秤に掛けたら宇宙なんてすっ飛んでいってしまうんだろう

 

 


無意味なことをずっと考えている。自分の中で底尽きるまで考えると、目眩がしてくる。脳が、もうやめてくれと、訴えている気がする

 

 

 

間違っていることなんてないのだと思う。正しいことも。

 

好きの頂点

 

 

好きの頂点は、無敵だ。


何かを好きだと思っている時、言葉にし切れぬ幸福感に埋もれる。

 

誰かを好きな時、何かを好きな時、好きな人と一緒にいる時、好きな音楽を聴いたり好きな本を読んだりしている時、好きな色の服を着ている時、好きな言葉に出会った時、好きな雲が流れている時、好きなことを好きなようにしている時、そしてそれらを改めて好きだと思う時、涙が出るほど幸せだと感じる。

 

その分、好きが崩れて無敵が頂点から落っこちる時が怖い。


好きなものを好きでなくなる瞬間には気が付きにくいけれど、それに気付いて好きだったことを思い出すと、寂寥感というのか、なんなのか、とにかく私はアレが駄目だ。
好きなものを好きでなくなるのは悲しい。

 

逆もまた然り。
逆の場合は人のみに限られるけれど、自分を好いてくれていた人が、離れていくのは寂しい。一時でも好いてくれたことはとても嬉しいけれど、離れていく寂しさよりは大きくない。


それ故時折、一定の距離を図ってしまう。山岳家が登山から下山へと変わる前に、天に向かって投げたものが落ちてくる前に、私は逃げ出したい。

 

 

いつまでも、好き続けられればよいのになぁ、一度好きになったものや人を。とても幸せだろうになぁ。

心を亡くす

 

 

最近よく思い出せない。

 

誰と何を話したとか、誰に何を話しただとかが、思い出せない。

 

確かに誰かと話をしたし、確かに誰かに話をしたんだが、どうにも思い出せない。

 

悪い話なら構わないけれど、「楽しかった」という思い出だけが残るのはちっと寂しい。ちゃんと具体的にどう楽しかったまで、覚えていたい。

 


同じ人と同じ会話を三度くらいせねば、駄目なのかもしれない。

 

 

 

忘れるというのは恐ろしい。

「忙しい」は心を亡くすと書くけれど、「忘れる」も心を亡くしている。どちらも似ているけれど、だいぶ亡くすの意味が違うように思う。忘れるほうが怖い。


 

 

いつかは死ぬ、と思うとなんでもよい気がしてくる。
色んなことを考えて、どうにもならない時は、そのうち死ぬもんなぁ、と思って考えるのを止める。
特に、不穏な意味はなく。