夢は自由

 

 

年が明けた途端、気が抜けてしまった。

 

好きな人に好かれることと、
苦手な人に好かれないようにすることは、
同じくらい難しい。

 

好きな人に好かれようとすると、苦手な人が先に近寄ってきて、
苦手な人に好かれないようにすると、好きな人が先に遠ざかって行ってしまう。

 

 

自分の考え、感情に折り合いを付けるのは難しい。
よいことと悪いこと、できることとできないこと、すべきこととしないほうがよいこと、そこいらへんの判断が難しい。

 

 

今年はそこの二点を、なんとかしよう〜と決めた。

 

 

 


昨日、飢餓状態の子供たちを助けようとする夢を見た。
トイストーリーに出てくる緑色の兵士たちが、夢の中では青色で、鉄砲からも青色の液体を飛ばして、私達を牽制してくる。

 

最近は専ら、知らない人たちが夢に出てくる。

 

 

 

 

という日記も携帯のメモに残しっぱなしだった。

 

本当に最近は、知らない人たちばかりが夢に出てくるし、インパクトのある人や物が現れる。

 

この前夢に出て来た少年の、赤茶色い目がずっと脳裏から離れない。彼は一体誰で、何のメッセージがあったんだろう。

 

昨日見た夢では、田舎の小さな小学校の、小さな校庭で、恐竜と鬼ごっこをしていた。校舎くらい大きな恐竜が二匹(二体?)いて、そいつらから一時間逃げ切るという、ゲームなのか、生死を賭けた本気の闘いなのか、わからないけれど無謀過ぎる内容のくせに逃げ切っていた、とにかく目が覚めてからもインパクト大の夢だった。

 

この前見た夢では、ちょうどその夢が眠りに入ってすぐの、意識を手放した直後の夢だったようで、その中でお客さんらしいおばさんがクレームを寄越して来たのだけど、私は辛うじて意識を残していたのか、「これは夢だしこのおばさんの相手するの面倒臭いなぁ」と思って無視をしたのを、翌朝思い出して笑ってしまった。

 

 

 

夢は楽しい。
夢は自由だ。
思い通りの夢を見ることはなかなかできないけれど(私の友人は好きな夢を見てその中で好きなように言動できると言っていた)、夢は現実と非現実の間にあって、いつも面白い。

 

 

 

シンプルなこと

 

 

自殺願望のある友人から、全く連絡が来なくなった。
もしかしたらもういないのかもしれない。
でも、自分の為の、興味本位の安否確認のような気がして、連絡はしないことにしている。

 

結局、彼女が元気だろうが元気でなかろうが、もういなかろうが瀬戸際にいようが、私には何もできない。

 

 

毎日どこかで誰かがいなくなってしまって、どんな時代であっても避けられないことなのだろうけれど、不便過ぎても便利過ぎても、よくないのだろうなと、ずっと思っている。

 


最近の仮想通貨流出の問題も、私はそういうのには滅法疎くて完全に世界が違うけれど、利益を最優先に追い求めた結果こうなっていることが、少し不思議でちょっぴりこわい。

 

お金自体に価値はないと、遠〜い昔に誰かが言っていた。そのものはただの紙でしかなく、ただの銅でしかないと。だからどこかの国の村では、お金という存在が無く、そこの人々は物の交換で生活をしていた。

 


そういうシンプルなことが、一番よい。
世の中を便利にする為に、あれやこれや規制をして、作り出して、消し去って、結果ごちゃごちゃしてしまって便利なのか不便なのかわからない。
ちょっとくらい不便なほうが、本当は生活し易いのではないかと思う。

 

 


エラも羽根もない人間が、水に潜ったり空を飛んだりしようとするから危険なんだ、と思うことがある。
海の中は美しく、雲の上は壮大だけれど、船や飛行機は物凄く便利で、何十年何百年前より何億倍も私たちの世界を広げてくれているけれど、そういうのを一切すべて取り払ったら、生活するという面では不便かもしれないけれど、生き抜くという点ではうんと楽な気がしてくる。


少しずつ、人間が、特に日本人は、機械化していっていて、恐ろしい。
色々な場面で色々な物事が多様化していって、個人の存在も徐々に強くなっていっている反面で、規則やマニュアルに縛られてどんどん人間味を失っていくような、そんな矛盾が生まれているように思う。

 


結局全部人間が自分たちで行っていることだから、それで悪い方向へ向かっていっているのだとしても、自業自得なんだろうね。どうなってしまっても。

 

 

 


という日記を書きかけていて、途中で訳わからなくなって辞めて、もう一度読み返したらやっぱり訳わからないので、諦めて投稿する。複雑なことばっかり。

 

 

くよくよするなよ

 

 

自分と無関係の人の言動に、ひどく励まされることがある。

 

どうにも落ち着かなくて、そうだあの人だと思って探したのだけど、もうどこにもいないらしい。

 

あんなに素敵だったのに、時はどんどん流れていって、あらゆるものは廃れていくのだと思い知らされて、また落ち込む。

 

 

 

死のことを考えると落ち着く。
いつか終わりが来るものは安心する。死にたくないと思えたらそれはそれで幸せだと思う。

 

アズミハルコみたいに、横道世之介みたいに、生きられたらよいのにな、といつも思う。

 

 

 

お酒の眠りに誘われて

 

 

外の冷気も電車の中で暖まりたいのか、窓の隙間から容赦無く入ってくる。

 

外は真っ暗で、時折街灯の下に雪が白く光るだけ、
二両しかない電車のボックス席に、ボストンバッグとお土産袋をぶん投げて、自販機から落ちた瞬間からぬるいカフェラテを飲んでいる。憎めない甘ったるさがなんとなく心地よい。

 

 

懐かしい駅を通り越す。
もう二度降りることはないんだろう。

 

 


偉大な人の偉大な言葉の、底の意味を考えていた。ずっとずっと追いかけているけれど、追いついたことは一度もない。ずっとずっと深くて、ずっとずっと遠い。

ニューヨークの、9.11メモリアルのことを思い出して、壁一面に貼られた様々な空の色、あの日あの場所にいた人たちの目に映った空の色、その時のそれぞれの感情が伝わってくるかのような悲しみの色、こんなにも違って見えるのかと驚き、少しの恐怖も抱いたあの日のことを思い出して、

 

結局は空を見上げて「青いな」と思うくらいの感覚でしか、他の恐怖や悲しみを汲み取る事はできないんだろう。それでも理解のできる人間になって、死ぬまでそのままでいられたらな、よいな、

 

 

 

思い出は夢の中

 

 

随分と長い夢を見ていた。

 

 

何らかの罪で、刑務所に入れられた。「普通は四日間拘置なんだけどね」と言われながら、翌朝に出してもらった。父が迎えに来てくれた。

 

 

夜、おばあちゃんの家へ行くと幼馴染みが来ていて、兄を車に乗せて行った。

 

 

拘置所を出てすぐ、ハンドボールの大会があった。
関東大会なのか全国大会なのか、とにかく優勝をした。中学時代の友人たちとだった。

もう亡くなってしまった、小学生の頃にとてもお世話になった監督が、そこにいた。
「今日は祝いだ!酒だ!」と喜んでいた。

 


宴会のできる居酒屋に行った。
高校の友人が、小学校と繋がっているんだよと、そこまで案内してくれた。

何かを探していて、ひとりで学校の教室へ戻ろうとしたら居酒屋の店員さんに「道はあっちですよ」と言われ、非常階段のような階段を上った。小学生たちが上を歩いていた。

 


いつのまにか、タイムワープのようなことが起こっていて、その小学生たちと一緒に恐竜のいる時代(なんとか紀みたいな時代)にいた。恐竜は、骨だけで動いていた。

怖くなって帰る道を探した。
そこへ母がやってきた。
なんとか母について行って、ドラえもんの空間移動みたいな丸をくぐり、マンホールの下の、排水が流れてくる狭い空間みたいなところを這って行った。

 


そうして居酒屋に戻った。昔可愛がっていた後輩が、お祝いをしたいと連絡をくれていた。もうすぐ宴だという時に、目覚まし時計が鳴った。

 


監督とは結局、お酒を飲めなかった。

 

 

 

最近、走馬灯のように色んな人が夢に出てくる。

 

 

 

 

 

生理的に無理だと感じる人が結婚していると、ホッとする。自分の感覚が可笑しいだけで、あの人は普通なんだと思って安心する。

 

 

人間的に無理だと思う人が周りに好かれていたり信頼されていたりすると、諦めがつく。自分だけがその人やその人を取り巻く環境から、そっと離れればいいのだと思って、もういっか、なんて思える。

 

 

 

と言いつつもなんとなく腑に落ちないからこうして書いている。そんな事もある。

 

 

 

心地よいと思える人だけと、同じ空間を共有できたらいい。

そういう人の幸せを願って、不運に悲しめたらいい。

 

 

 

 

ハンアンコタ

 

 

感情は少ないほうが楽だろうな、と時々思う。

 

機械のように淡々と生きていたほうが、文字通りの平穏で暮らせるのではないかと思う。

 

だから時折、よい感情も好ましくない感情も、閉じ込めてみることがある。悲しいことや不快なことを見て見ぬ振りをし、愉快なことや刺激のあることにも関わらないようにすることがある。なるべく感情を平らにして、色んなものから少し距離を置いて。

 

 


昔好きだったものや信じていたものを、しばらくの間忘れていて、今日それをふと思い出して、そうしたらやっぱりそれが今でも好きで、今だにそれを信じていて、昔は何も考えずただがむしゃらに追い掛けていたことを、今では正しかったのだと思うようになっていて、好みや信仰に優劣や正不正はないけれど、それでも間違っていなかったんだとわかって、そうしたら涙が出てきた。何かを犠牲にしたわけでもないけれど、なんだか「報われた」という思いがした。

 


好きという感情は時々恐ろしい。
愛と憎しみが隣り合わせであるように、いやそれとはまた違うけれど、好きなもの程触れることが怖くなる。いつかそれらが消えてしまったら、あらゆる事実もすべて無かったことになっていってしまうのではないか。だから、幼い頃仲の良かった友人の家にあった、地下の物置みたいに、そういったところに押し込めようとしてしまう。いなくなった時に気が付かないで済むように。

 


ただそういう時、信じていてる人の言葉は強い。信頼というよりも、ほとんど信仰に近い、そういった人が放つ言葉は、とても重たい。 「真っ白に楽しんで」。たったそれだけの、たった一言が、今の私には酷く響く。


また別の人は、「欲張らなきゃ勿体無い。」と言っていた

 

 

時間という概念が無かったら、世界に時計というものが存在しなかったら、もう少し生き死にに対しての思考はぼんやりとしていたんだろうか。何歳まで生きられるとして、残りはあと何年で、これをするには何日かかって、今これを打っている間に何分が経過していて、そういったことを一々考えている間にも時間は過ぎ去っていって、時間という概念が有ろうが無かろうが時は流れていくのに、それが存在するから、私の部屋には時計があるから、街では12時のチャイムが鳴り駅には時刻表が貼られておりオリンピックでは100mのタイムが競われるから、私は時間というものに怯える。

 

 

 

 

 

と、嘆いたところで変わるものは何もないけれど。気休めに、あったかいコーヒーを飲んだりしている。