短いこの人生で一番大事なもの、それは

 

 

人に優しくしていれば、自分と相手を取り巻く空間がすべて平和になるとずっと信じていた。

 

自分か相手かどちらかを選ばなければいけない時、いつだって相手を優先させていれば、身を粉にしてでも人の為に動いていれば、常に相手の気持ちに寄り添えるよう意識していれば、それはきっと相手の為になるし、いつか自分にも返ってくると思って、ずっとそう思って、できる限りそうできるように過ごしてきた。(人として尊敬できない人に対してはそうしなかったけれど。)

 

けれど大概の思いは伝わらないし、変に誤解を生んでしまったりすることが本当に多くて、もういっかな、うんうんもういいや〜、と思ったの。

 


なんだか急に気が抜けて、色んな事がどうでもよくなってしまった。

 

自分にしか生きられない自分の人生、これからは自分の為だけに過ごしていこうと思い始めている。


疲れてしまった。

 

 

 

 

 

 


と、昨晩書き留めていたのだけれど、今日も朝からあれやこれやと考えたり考えなかったりして、なんだかよくわからなくなってしまったので、よしもとばななさんの本を読んだ。

 

そうしたら、やっぱりこれまでの自分は間違っていなかったんだ、という確信が持てた。かと言って、これからもそれを続けるべきなのかはわからない。というより、気が乗らないというか、よし頑張ろう、という気に今はなれない。ただ、なんにせよ、よしもとばななさんは本当に凄い。彼女の言葉はどこまでも真っ直ぐで、芯があって強くて、そして何より優しい。今はそれでもういい。

 

 

 

最近、嘘をつけなくて後悔したことが二度あった。どちらも間違ってはいなかったけれど、何故だかとても後悔した。そして、悲しかった。

 

何が良くて何が悪いのか、わからない。

わからないから、いつだって自分の頭と心に従っていこうと思う。誰も代わってはくれないし、誰に従ったところで責任を取るのは自分だけだから。

 

 

 

これからもたぶん、同じようなことで悩んで、悲しくなったり虚しくなったり、そうして疲れてしまったりするんだろう。ひとりでどうにも解決できない時は、ご近所さんに相談できない時は、こうやってこっそり遠い人を頼ったらいい。

 

 

 

 

 

 

短いこの人生で一番大事なもの、それは、

俺の自由!

 

 

よしもとばななさんの本の中で、忌野清志郎氏が歌っていた言葉。

 

尊敬する人の尊敬する人は、やっぱり凄い。

 

 

 

 

 

 

サワダさん

 

 

いい人と、いい人でない人の違いは、どこにあるんだろう。

 

今の職場に、以前物凄くいい人が居たらしい。私は会ったことがないのだけれど、その人を知っている人たちが皆口々に「あの人は本当にいい人だった」「今まで(60年生きてきて)あんなに素敵な人に会ったことがない」と言っているので、どんなに素晴らしい人なのか、できることなら私もその人と一緒に働いてみたかったなぁと思う。

 

どういい人だったのかはざっくりとしか聞いていないけれど、誰に対しても本当に親切で、本人曰わくこれまでに一度も人に対して怒った事がないらしかった。それだけを聞くとなんとなく平凡な事であまりピンとこないけれど、その人たちの、彼女を思い出して話す雰囲気に、いかに彼女が素晴らしい人であったかがよく表れていて、だから私は彼女に会ったことはないけれど、彼女が本当に素敵な人であったことはよくわかっている。

 


人は人それぞれで(?)、色んな性格の人がいるし、時・場所・場合によってそれは変化するし、相手との関係によっても異なってくるし、受け手側もまた同じように、その時々で相手の印象が変わってくる。同じ人間同士でも、TPOが異なれば互いの印象も多かれ少なかれ変わるはずだと思う。

 

自分の事を「気の利く世話好きな人」だと思っている人を私はそうは思わなかったし、独特であまり周囲の人とうまく関係を築けていない人を私は好きだったし、いくら自分でそう思っていても周りはそうとは思っていなかったりもする。

 

そんな中で皆に一様に「いい人だ」と思われるのは本当に素晴らしいことで、本当に素晴らしい人で、じゃあ一体、どうやったらそんな素敵な人になれるんだろうか。

 

いい人になろうと思ってなれるものではないし、無理していい面をしてみてもいつかは崩れていくし、たとえ一部の人に好いてもらえたとて万人に好かれるのはとても難しい。

 

 

 

人との関係を築いていくのって、本当に難しい。トランプのタワーを作るより、髪の毛に乗るくらいの小さなワイングラスを作るより、もっとずっと難しい。

 


ただ、万人に好かれなくても、私を好いて慕ってくれる一握りの人たちを、精一杯大切にしよう、と思えた今日だった。

 

 

 

 

人生の旅をゆく

 

 

最近、よしもとばななさんの本を読んでいる。よしもとさん、なのか、ばななさん、なのか、よしもとばななさん、なのか、ファンの人たちは彼女の事をどう呼んでいるのかわからないけれど、とても素敵な方で、今じわじわと影響を受けている。

 

 

よしもとばななさんの本に出会ったのは二年前、タイに住んでいた友人に会いに行った時のこと、その友人が「日本の本が置いてある古本屋に行きたい」と言うのでそれについて行ったのがきっかけだった。帰りの空港で、時間潰しに何か読むものをと思って見つけたのが、『人生の旅をゆく』という本だった。

 

結局その時は少し読んだだけでその後長らく放置してしまったのだけど、この前そういえばと思って改めて読み出したらすっかり魅了されてしまい、そのあとすぐ焦る様に本屋へ行って別の本を4、5冊買い足した程だった。

 


彼女の(日本語でそのまま"彼女"と言うと敬意が削がれてしまう印象があるけれど、英語のイメージのつもりで使っている)、考え方やそれを基にした生き方、その人生を表現する文章などが本当に素敵で、言葉ひとつひとつにその場その場の色んな感情が込められていて、見栄や裏表がなく、いい意味でとても生々しい。その生々しさが素晴らしくて、私も一緒に泣いてしまったり憤ったり考え込んだり心が温まったり、しているのである。

 

彼女の言葉を読んでいるととても落ち着く。綺麗だけれど自然で、真っ直ぐで、それでいて独特で、世界が広くて、だけどいつもフワッと隣にいるかのような、そんな美しくて安らげる空間が、この小さい一冊の中に詰め込まれているの。子どもにとっての絵本のように、私にはこの一冊の本が、楽園のように感じる。

 

 

彼女の本は沢山出ているので、一冊ずつゆっくり、噛み締めながら、時折縋るように、読んでいこうと思う。

 

 

 

 

そもそもタイに行かなかったら、そもそもその友人と仲良くなっていなかったら、あの学校を選んでいなかったら、更に遡ってうんぬんかんぬん、私はこの人生の、この今の時期の、無くても生きてはいけるけれど、有ることでパズルの何百というピースの中の一つがスッと埋まるような、時折アルバムを捲って思い出す懐かしい記憶のような、小さくて大きい幸せは得られなかったのだと思うと、あぁ全てが繋がっていてよかったなぁと、しみじみ感じるのである。

 

 

 

 

 

 

青春の真っ只中

 

 

正しい生き方ってなんだろう

 

と、常に人は考えて生きているのだと思う。

私も、いつも、その答えを追いつつも、逆に追い掛けられているかのような感覚で、追いながら逃げながら、過ごしている。

 

理想の人生や典型の、普遍的・平均的な生き方はあるけれど、本当は生き方に正、不正などというものはない。(というところまではわかっているのだけれど、、、)

 

いざ、自分の生き方を認めようとすると、とても難しい。

 

 

ただ昨晩ふと、今が青春の真っ只中なのではないか、と思ったの。

何もない、山だらけの、雪だらけの町で、朝昼晩に町中にアナウンスが流れる町で、朝から晩まで可もなく不可もない職場で働き通し、休みの日は家でまったりして、ほとんど外出も外食もせず、たまに部屋で一人、お酒を飲んであれやこれや思い、時折遠くの友人と連絡を取り、いつかの再会を約束し、正直以前より、世間から離れた生活をしている。

 

ただ、なんとなくこれが心地良い。
寂しさも悲しさもなく、その分楽しさも嬉しさも少ないけれど、気分も以前よりずっと安定している。前よりもうんと眠れるようにもなった。

 


療養期間のようにも思う。
心を落ち着かせて、余計な考えを捨てて、必要なことだけを考えて、今は、とても大切な期間のように思う。

 


特別なことは何もなく、後で振り返っても、薄い記憶しか残らないのかもしれない。
それでも何故か、今が青春の真っ只中である気がするのである。


そしていつか、それがわかる時がくる。
その時これが青春でなかったとしても、これはきっと青春なのである。

 

 

 


そういえば昨日、突然に春がやってきた。
山では鳥が鳴き、いつもより日差しは暖かく、風は穏やかだった。春の匂いだった。

 

 

 

 

夢は自由

 

 

年が明けた途端、気が抜けてしまった。

 

好きな人に好かれることと、
苦手な人に好かれないようにすることは、
同じくらい難しい。

 

好きな人に好かれようとすると、苦手な人が先に近寄ってきて、
苦手な人に好かれないようにすると、好きな人が先に遠ざかって行ってしまう。

 

 

自分の考え、感情に折り合いを付けるのは難しい。
よいことと悪いこと、できることとできないこと、すべきこととしないほうがよいこと、そこいらへんの判断が難しい。

 

 

今年はそこの二点を、なんとかしよう〜と決めた。

 

 

 


昨日、飢餓状態の子供たちを助けようとする夢を見た。
トイストーリーに出てくる緑色の兵士たちが、夢の中では青色で、鉄砲からも青色の液体を飛ばして、私達を牽制してくる。

 

最近は専ら、知らない人たちが夢に出てくる。

 

 

 

 

という日記も携帯のメモに残しっぱなしだった。

 

本当に最近は、知らない人たちばかりが夢に出てくるし、インパクトのある人や物が現れる。

 

この前夢に出て来た少年の、赤茶色い目がずっと脳裏から離れない。彼は一体誰で、何のメッセージがあったんだろう。

 

昨日見た夢では、田舎の小さな小学校の、小さな校庭で、恐竜と鬼ごっこをしていた。校舎くらい大きな恐竜が二匹(二体?)いて、そいつらから一時間逃げ切るという、ゲームなのか、生死を賭けた本気の闘いなのか、わからないけれど無謀過ぎる内容のくせに逃げ切っていた、とにかく目が覚めてからもインパクト大の夢だった。

 

この前見た夢では、ちょうどその夢が眠りに入ってすぐの、意識を手放した直後の夢だったようで、その中でお客さんらしいおばさんがクレームを寄越して来たのだけど、私は辛うじて意識を残していたのか、「これは夢だしこのおばさんの相手するの面倒臭いなぁ」と思って無視をしたのを、翌朝思い出して笑ってしまった。

 

 

 

夢は楽しい。
夢は自由だ。
思い通りの夢を見ることはなかなかできないけれど(私の友人は好きな夢を見てその中で好きなように言動できると言っていた)、夢は現実と非現実の間にあって、いつも面白い。

 

 

 

シンプルなこと

 

 

自殺願望のある友人から、全く連絡が来なくなった。
もしかしたらもういないのかもしれない。
でも、自分の為の、興味本位の安否確認のような気がして、連絡はしないことにしている。

 

結局、彼女が元気だろうが元気でなかろうが、もういなかろうが瀬戸際にいようが、私には何もできない。

 

 

毎日どこかで誰かがいなくなってしまって、どんな時代であっても避けられないことなのだろうけれど、不便過ぎても便利過ぎても、よくないのだろうなと、ずっと思っている。

 


最近の仮想通貨流出の問題も、私はそういうのには滅法疎くて完全に世界が違うけれど、利益を最優先に追い求めた結果こうなっていることが、少し不思議でちょっぴりこわい。

 

お金自体に価値はないと、遠〜い昔に誰かが言っていた。そのものはただの紙でしかなく、ただの銅でしかないと。だからどこかの国の村では、お金という存在が無く、そこの人々は物の交換で生活をしていた。

 


そういうシンプルなことが、一番よい。
世の中を便利にする為に、あれやこれや規制をして、作り出して、消し去って、結果ごちゃごちゃしてしまって便利なのか不便なのかわからない。
ちょっとくらい不便なほうが、本当は生活し易いのではないかと思う。

 

 


エラも羽根もない人間が、水に潜ったり空を飛んだりしようとするから危険なんだ、と思うことがある。
海の中は美しく、雲の上は壮大だけれど、船や飛行機は物凄く便利で、何十年何百年前より何億倍も私たちの世界を広げてくれているけれど、そういうのを一切すべて取り払ったら、生活するという面では不便かもしれないけれど、生き抜くという点ではうんと楽な気がしてくる。


少しずつ、人間が、特に日本人は、機械化していっていて、恐ろしい。
色々な場面で色々な物事が多様化していって、個人の存在も徐々に強くなっていっている反面で、規則やマニュアルに縛られてどんどん人間味を失っていくような、そんな矛盾が生まれているように思う。

 


結局全部人間が自分たちで行っていることだから、それで悪い方向へ向かっていっているのだとしても、自業自得なんだろうね。どうなってしまっても。

 

 

 


という日記を書きかけていて、途中で訳わからなくなって辞めて、もう一度読み返したらやっぱり訳わからないので、諦めて投稿する。複雑なことばっかり。

 

 

くよくよするなよ

 

 

自分と無関係の人の言動に、ひどく励まされることがある。

 

どうにも落ち着かなくて、そうだあの人だと思って探したのだけど、もうどこにもいないらしい。

 

あんなに素敵だったのに、時はどんどん流れていって、あらゆるものは廃れていくのだと思い知らされて、また落ち込む。

 

 

 

死のことを考えると落ち着く。
いつか終わりが来るものは安心する。死にたくないと思えたらそれはそれで幸せだと思う。

 

アズミハルコみたいに、横道世之介みたいに、生きられたらよいのにな、といつも思う。