森になりたい

 

 

私は今モーレツに、森になりたい。


静かで穏やかで豊かな植物、動物たち、時には妖精(本当にいると思っている)、そしてそれらを守り率い支えている大樹、そう、

 

私は森になりたい。

 


現実的に考えれば森に住みたい。
鳥のさえずり、葉々のささやき、木々のぬくもり、花々の香り、清々しい風、優しい大地、温かく木漏れる太陽、静かで穏やかな日々、時をも忘れる生活、現世と他世の間のような空間、他を思いやり誰にも邪魔されない暮らし、本当の意味での共存、規則も罰則もない自由な世界、そう、私は今、とにかく、モーレツに、森に、住みたいのである。

 

 

 

怒る、や悲しむ、や苦しむ、のような負の感情を持つことは本当に疲れる。
他を、特に人間を、理解するのなんて殆ど難しいし、わざわざ無理矢理に理解する必要はないのだと、諦め半分に思う。

 

結局のところこの世界は、この私の人生は、私の中で起こり、生き、過ぎ、死んでいく。故に私は私の中に、森を作ることができるような気がしてきた。

 

私は今日から私の森に住むのである。

 

 

 

 

 

春、爛漫

 

 

春休みであろう小学生たちが外を駆け回って遊んでいて、なんだかホッとした。

少子化と機械化が進んでいる中、まだ家の外に出て原始的な遊び方をしていることに安心感を覚える。

 

小学生の頃よく通っていた駄菓子屋さんがとっくに店仕舞いをしているのは知っていたけれど、それでもカーテンの閉まったそのお店の前を通ったら、悲しくなってしまった。

 


何にでも終わりがあって、人との出会いにも、この命にもいつか終わりがくるけれど、どうか大好きな人たちだけは、離れていかないで〜と思ってしまう。寂しい。悲しい。心細くておそろしい。

 

 

人生は暇つぶし、と誰かが前に言っていた気がする。

今、ふと私もそう思う。


この人生はリハーサルのようなもので、この人生が終わった後に、何かもっと大きなものが、やってくるんではないか。

そう思いたいと思う心と、本当にそうなんではないかと思う心とがある。

 

だから自由だ。
この世界は、この人生は、全てが自由だ。

この世界は、この人生は、すべて自分の中にある。
私の頭の中で回っているだけなのだから、もっと気を楽にやっていこうではないか。

 

この世界で私は一人だけだし、一人ぼっちでもあるけれど、それでも私だけでない。
同じことを考えている人がいる。同じことに悩み、悲しみ、喜び、同じように生きている人がいる。大丈夫だ。

 

 

最高に最高な音楽を目一杯音量を上げて聴きながら、テレビに映っている理不尽な出来事を見たり、この世の中のことを考えたりしていると、笑えてしまうほど本当に不条理で、どうして私はこんなところにいるんだろうと思えてくる。


いつまでこんな所にいるんだろう

と、この前部屋で一人、無意識に近い状態で呟いていたことを思い出す。

本当に、いつまでこんな所にいるんだろう。


最近、どんどん短いスパンで、日本に対する不信感や嫌悪感が生まれている。海外に触れる機会が増えたからかもしれない。単に、今の自分を快く受け入れられないからかもしれない。


何処かへ行きたい。遠くへ、できる限り何も知らない、何も知られない所へ。

この世界から、この国から、この街から、この部屋から、飛び出したい。

世界は広いくせに何処へだって行ける。何処へだって行けるのに、どうしてこんな狭い部屋に閉じこもっているんだろう。

 

 

地下にいる気分なわけではないけれど、空が青くて真っ白い雲が気ままに動いているのを見ると、なんだか自分と比べてしまう。

 

尊敬する人が、過去も現在も未来も、本当は同じ空間の中にあるのではないかと言っていた。そうだったら、そうだったら私は今何を考えて何をしたらいいんだろう。


偉大な人の陰には人や生きとし生けるものの死がある。

 

 


最近お酒が飲めなくなってきたし、お酒を飲んだ夜はあまりよく眠れないし、眠たい日は生と死の狭間にいるような気がしてくる。


時折何の為に生きているのかわからなくなる。
死にたいに繋がるわけでなくて、単純な理由がわからない。

 


助けてほしくって
合図を出してみようかと思うけど
怯えてしまってできなくて
ぐるぐるグルグル
曲がった配管を転げ落ちていく気分

誰かに愚痴を聞いてほしい
否定をせずに、うんうんそうだね間違ってないよって、言ってほしい

そんな居場所なんてないのよ〜


憧れている人のことを思い出して、物凄く胸がホッとした、わたし間違ってないやと思える

 

 

 


ここ最近書き留めておいたメモ5、6個を面倒臭いのでひとつにまとめたら、全然まとまっていないけれど面倒臭いのでそのまま保存しておく。思考の整理ができないとずっとモヤモヤが残る。これで少しは脳みそにスペースができたかしら。

 

あと30個くらいあるメモを、早くゼロにしたい、、、。

 

 

 

春燦爛

 

 

みんな、どこに向かっているんだろう。

 


最近、春の匂いを感じている。
勿論春だから。そうでしょうね。
三月に入った途端、本当にきっちりと花粉症になった。どうして花粉は未来の無い人間の体にわざわざ入ってくるのかを、毎年毎年考えている。花粉は子孫が残せないし、人間はくしゃみや痒みが止まらない、互いに利益の無い事を、どうして毎年健気に続けているのか、アタイ本当に理解できないわ。

 

 

そんなことはさておき、ここのところ毎日春を感じられて嬉しい。職場の人が「今日超能力を得たんですよ〜、春を感じられるようになりました!」と言っていたこともさておき、春の香りにはいつもワクワクする。本当に、匂いがするものなのね。季節はそれぞれ。
春の匂いは、ほっこりして落ち着く。ウキウキしてくる。

 

鳥もピヨピヨ鳴き出して、なんだか平和。
以前、仕事中上司に「(鳥が鳴いていて)のどかですねぇ」と言ったら「アンタがのどかなのよ」と言われて絶句。実にその通り、今日も平和で嬉しいなぁ。

 

 

 


近頃、夢によく同じ友人が出てくる。彼女らとはもう何年も会っていない。夢に出てくるということは、会いたいのだろう。けれど、なんとなく、もう二度と会えない気がしている。理由はわからない。

 

 

誰も行ったことのないところへ行ってみたい。

穴場とか、辺境地とか外国とか、天国とか地獄とか、そういうんではなくて、

自分にしか行けないところへ行きたい。

 

誰もいない、正も不正もルールも全部、自分の中にしかない、自分以外何もない、ところ


そういう場所を見つける為に、

 

 

 

 

の後、何を書きたかったんだろうか。
いつも途中で思考が止まってしまっていけない。

 

 

しらす丼が食べたいなぁ。

 

 

 

 

なんだか疲れてしまったね

 

 

気が緩むといつでも死がやってくる。

みんなそうなんだろうか。

 


いつだって死にたいと思う。
でも、色んな事を考えて、総合して、生きているけれど、
時々

 

 

 

誰もわかってくれないし、自分でさえどうしたらいいのかわからない時がたまにやってきて、もがいてみるけれどどうにもできなくて、

 

 


私は人を殺してまで、生きようとするんだろうか?

 

若くして死んだ人や、惜しまれて死んだ、偉大な人を知る度に、

 

本当のことを言うと引かれてしまうから言えない。

 

 

 

結局お酒を飲んだ日は、悲しくなって泣いてしまう。

 


どこに行っても変われない


明日になったらまた平気な顔をして過ごさねばいけないのも、もう嫌だ

 


みんな、自分の話はしたがるけれど相手の話になったら急に興味を無くす。

 


自分にしかわからないこの苦痛の時間を、乗り切るのが本当に苦しい。

 

 

 

今死んだら楽だろうなと思う。
酔っていて、正しい判断もできない。

 


テレビには、自分と正反対の、不自由したことないような人が映っている。

 


もう、なんでもいい。
好きにやらせてくれ、と思う。

 

 

 

次の日正気になって見たら、あ〜やっちまったと思うんだろう。

でもそうなんだよ。
二重人格みたいに、もう一人こういう奴がいるんだよ。

 

 

 

短いこの人生で一番大事なもの、それは

 

 

人に優しくしていれば、自分と相手を取り巻く空間がすべて平和になるとずっと信じていた。

 

自分か相手かどちらかを選ばなければいけない時、いつだって相手を優先させていれば、身を粉にしてでも人の為に動いていれば、常に相手の気持ちに寄り添えるよう意識していれば、それはきっと相手の為になるし、いつか自分にも返ってくると思って、ずっとそう思って、できる限りそうできるように過ごしてきた。(人として尊敬できない人に対してはそうしなかったけれど。)

 

けれど大概の思いは伝わらないし、変に誤解を生んでしまったりすることが本当に多くて、もういっかな、うんうんもういいや〜、と思ったの。

 


なんだか急に気が抜けて、色んな事がどうでもよくなってしまった。

 

自分にしか生きられない自分の人生、これからは自分の為だけに過ごしていこうと思い始めている。


疲れてしまった。

 

 

 

 

 

 


と、昨晩書き留めていたのだけれど、今日も朝からあれやこれやと考えたり考えなかったりして、なんだかよくわからなくなってしまったので、よしもとばななさんの本を読んだ。

 

そうしたら、やっぱりこれまでの自分は間違っていなかったんだ、という確信が持てた。かと言って、これからもそれを続けるべきなのかはわからない。というより、気が乗らないというか、よし頑張ろう、という気に今はなれない。ただ、なんにせよ、よしもとばななさんは本当に凄い。彼女の言葉はどこまでも真っ直ぐで、芯があって強くて、そして何より優しい。今はそれでもういい。

 

 

 

最近、嘘をつけなくて後悔したことが二度あった。どちらも間違ってはいなかったけれど、何故だかとても後悔した。そして、悲しかった。

 

何が良くて何が悪いのか、わからない。

わからないから、いつだって自分の頭と心に従っていこうと思う。誰も代わってはくれないし、誰に従ったところで責任を取るのは自分だけだから。

 

 

 

これからもたぶん、同じようなことで悩んで、悲しくなったり虚しくなったり、そうして疲れてしまったりするんだろう。ひとりでどうにも解決できない時は、ご近所さんに相談できない時は、こうやってこっそり遠い人を頼ったらいい。

 

 

 

 

 

 

短いこの人生で一番大事なもの、それは、

俺の自由!

 

 

よしもとばななさんの本の中で、忌野清志郎氏が歌っていた言葉。

 

尊敬する人の尊敬する人は、やっぱり凄い。

 

 

 

 

 

 

サワダさん

 

 

いい人と、いい人でない人の違いは、どこにあるんだろう。

 

今の職場に、以前物凄くいい人が居たらしい。私は会ったことがないのだけれど、その人を知っている人たちが皆口々に「あの人は本当にいい人だった」「今まで(60年生きてきて)あんなに素敵な人に会ったことがない」と言っているので、どんなに素晴らしい人なのか、できることなら私もその人と一緒に働いてみたかったなぁと思う。

 

どういい人だったのかはざっくりとしか聞いていないけれど、誰に対しても本当に親切で、本人曰わくこれまでに一度も人に対して怒った事がないらしかった。それだけを聞くとなんとなく平凡な事であまりピンとこないけれど、その人たちの、彼女を思い出して話す雰囲気に、いかに彼女が素晴らしい人であったかがよく表れていて、だから私は彼女に会ったことはないけれど、彼女が本当に素敵な人であったことはよくわかっている。

 


人は人それぞれで(?)、色んな性格の人がいるし、時・場所・場合によってそれは変化するし、相手との関係によっても異なってくるし、受け手側もまた同じように、その時々で相手の印象が変わってくる。同じ人間同士でも、TPOが異なれば互いの印象も多かれ少なかれ変わるはずだと思う。

 

自分の事を「気の利く世話好きな人」だと思っている人を私はそうは思わなかったし、独特であまり周囲の人とうまく関係を築けていない人を私は好きだったし、いくら自分でそう思っていても周りはそうとは思っていなかったりもする。

 

そんな中で皆に一様に「いい人だ」と思われるのは本当に素晴らしいことで、本当に素晴らしい人で、じゃあ一体、どうやったらそんな素敵な人になれるんだろうか。

 

いい人になろうと思ってなれるものではないし、無理していい面をしてみてもいつかは崩れていくし、たとえ一部の人に好いてもらえたとて万人に好かれるのはとても難しい。

 

 

 

人との関係を築いていくのって、本当に難しい。トランプのタワーを作るより、髪の毛に乗るくらいの小さなワイングラスを作るより、もっとずっと難しい。

 


ただ、万人に好かれなくても、私を好いて慕ってくれる一握りの人たちを、精一杯大切にしよう、と思えた今日だった。

 

 

 

 

人生の旅をゆく

 

 

最近、よしもとばななさんの本を読んでいる。よしもとさん、なのか、ばななさん、なのか、よしもとばななさん、なのか、ファンの人たちは彼女の事をどう呼んでいるのかわからないけれど、とても素敵な方で、今じわじわと影響を受けている。

 

 

よしもとばななさんの本に出会ったのは二年前、タイに住んでいた友人に会いに行った時のこと、その友人が「日本の本が置いてある古本屋に行きたい」と言うのでそれについて行ったのがきっかけだった。帰りの空港で、時間潰しに何か読むものをと思って見つけたのが、『人生の旅をゆく』という本だった。

 

結局その時は少し読んだだけでその後長らく放置してしまったのだけど、この前そういえばと思って改めて読み出したらすっかり魅了されてしまい、そのあとすぐ焦る様に本屋へ行って別の本を4、5冊買い足した程だった。

 


彼女の(日本語でそのまま"彼女"と言うと敬意が削がれてしまう印象があるけれど、英語のイメージのつもりで使っている)、考え方やそれを基にした生き方、その人生を表現する文章などが本当に素敵で、言葉ひとつひとつにその場その場の色んな感情が込められていて、見栄や裏表がなく、いい意味でとても生々しい。その生々しさが素晴らしくて、私も一緒に泣いてしまったり憤ったり考え込んだり心が温まったり、しているのである。

 

彼女の言葉を読んでいるととても落ち着く。綺麗だけれど自然で、真っ直ぐで、それでいて独特で、世界が広くて、だけどいつもフワッと隣にいるかのような、そんな美しくて安らげる空間が、この小さい一冊の中に詰め込まれているの。子どもにとっての絵本のように、私にはこの一冊の本が、楽園のように感じる。

 

 

彼女の本は沢山出ているので、一冊ずつゆっくり、噛み締めながら、時折縋るように、読んでいこうと思う。

 

 

 

 

そもそもタイに行かなかったら、そもそもその友人と仲良くなっていなかったら、あの学校を選んでいなかったら、更に遡ってうんぬんかんぬん、私はこの人生の、この今の時期の、無くても生きてはいけるけれど、有ることでパズルの何百というピースの中の一つがスッと埋まるような、時折アルバムを捲って思い出す懐かしい記憶のような、小さくて大きい幸せは得られなかったのだと思うと、あぁ全てが繋がっていてよかったなぁと、しみじみ感じるのである。