もう戻れない場所を想う時

 

 

うんざりしている。

 

天気が良くて、ホッとして、洗濯して、他に何もできる事がなくて、気分が沈んで、寝て、起きて、ご飯を作って、食べて、美味しくて、あぁ生理だったんだなと思って、うまく出来ていることに安堵して、それでもいつまでもへばりついてくる不可解なことに頭を抱えて、あぁまた同じ線をぐるぐると回っているなぁ、嫌だなぁ、でもこの線を引いているのも自分自身だしなぁ、ダメだなぁ、抜け出さないとなぁ、難しいなぁ、、、そしてまた酒を呑む。

 

 

もう会えない人を想う時というのは、こんなにも気が狂いそうになるのか。

寂しい、悲しい、苦しい、を軽く飛び越えて、恐ろしい。

 

もう会えない人は、何を想っているのか。

 

 

 

 

こんなに長い幸福の不在

 

ずっと、長い間、同じ事を考え続けていると思っていたけど、時間や環境と共に、変化しているんだなぁと思う。

 

数年前と同じ本を読んでいる時。

昔はよく意味がわからなかったことが、胸にズシンと来ることがある。単に大人になって、世界が少し広がったというのもあるが、今の自分が置かれている状況とリンクしていたりすると、その本への理解度が全く変わる。

 

はたまた物凄く共感できて大切にしていた本を読み返した時、あまりしっくり来なくなっていることもある。当時のあの衝撃はなんだったんだと、本当に不思議に思う。

 

 

「憂鬱」という言葉は、こんなにも可愛らしい言葉だったのか、と驚いている。

もっと前には、最も暗く重たい言葉だとさえ思っていたのに。

 

だるい、面倒くさい、つまんない、そういった、今日は大学の講義サボっちゃおうぜ、みたいな、気安さ。軽さ。微笑ましさ。

 

 

しばらくの間バイブルにしていた本が、いつのまにか薄っぺらくなってしまった。

とても残念なことだけど、今の自分の心の位置がわかったことは、よかったのかもしれない。

 

天網恢恢疎にして漏らすな

 

川の水が、日々少しずつ、でも確実に、岩を抉っていく。

抉れた部分は元に戻らない。

 

悪いのは水か、川か、地形か、風か、もしくは岩そのものなのか、あるいは、悪自体が存在しないのか。

いつか、褒め称えられるのは、土地か、水か、岩なのか。

 

生きるというのは、そういう毎日だと思う。

そういう、曖昧で、見方によって、どうとでも取れる、そしてどれもが正しくてどれもが間違っている、そんなものだと思う。

 

それでも確かなことは、そこに傾斜があって、水があって、それが流れる範囲があって、風が吹いていて、岩が抉れるということ。

そして、抉れた岩は元に戻らないということ。

 

 

 

 

二十歳になる頃まで、秋はまるでつまらないものだった。大人たちがわざわざ紅葉を観に行くこと(というか景色を目的に旅行へ行くこと自体)の意味が全くわからなかったし、長期休みがないし、暑くもなければ寒くもなく、とにかくパッとしなかった。

 

それがここ最近急に、メキメキと秋の魅力に気付き始めて、もう虜というほど虜である。

幼い頃の私の目には、秋には色がなかった。強いて言えば茶色だったかもしれないけど、というか茶色一色だった気がする。なぜだか。

 

ところが大人になってみると、なんと多彩なこと。春も夏も色鮮やかだけれど、秋の、心の奥深くにまで入ってくるような、情緒ある色っていうの?(知らんがな)?春は見ていて可愛らしくてほっこりするような色、夏はパッと明るくてウキウキするような色、そして秋はしっとり、うっとり、しみじみしてしまう、溜め息の出るような、美しい色。(そして今や冬が無色)草花の色は勿論だけれど、空と空気の色や雰囲気がとても美しい。

 

柿の木、みかんの木、コスモス、名前は知らないけど赤いモフモフの、草…?、今日新たに見つけた紫色の綺麗な花、いつのまにか赤黄色に姿を変えた公園の芝、それぞれに紅葉した山、山、山、そして澄んだ空気と淡く透き通った空、吸い込まれてしまいそうな美しいピンクの夕焼け、はぁ…なんて素晴らしいのでしょう…。

 

 

自然の力の偉大さには常々平伏しているが、本当にその力は凄い。太陽がまさにそう。科学だか天文学だかなんだか知らないが太陽光ってエネルギーに代わるじゃない。太陽光で力を生み出して物を動かしたり(詳しくは全く知らないが)、それってよく考えると凄いことじゃない?超能力よりも凄いというか元祖超能力というか、なんかそんなかんじ。人間が草花や空を見て心を動かされ生きる原動力になったりする原理もよくわからないが、人間の感受性のおかげだけでなくやはり、自然の威力そのものの凄さにあると思う。

 

 

とにかく私は今、秋の素晴らしさに心底感動しているのである。そして、その度優しい人間になろうと何故か思う。

 

 

ということを日々しみじみと感じていたらいつのまにか枯葉、落葉、秋の終わり、諸行無常

 

 

2020年11月20日金曜日曇り後晴れ

 

 

今日、急に色んな人とバタバタ関わったので、とても疲れた。人の持つエネルギーって凄い。オーラみたいな、魔力みたいなもの。体内や脳内にまで侵食してくるのね。こっちのエネルギーを吸い取っていくような。

恐ろしい。とっても疲れた。

 

随分前に4の呪縛を解いたはずだったけれど、実はずっと抜け出せないでいる。夕方のニュースの4時44分、携帯の充電44パーセント、今日なんて買い物の合計が4444円で、ゾッとした。普段ならこんなに過敏にはならないけれど、エネルギーを吸い取られた後だったから、なんかもう悪い事が起きる予感しかなくて、怯えている。自宅で安静にしているので、もう大丈夫なはずなんだが。

 

安息を、とドラえもんを観てみたけど些細な一幕にいちいち涙が出て(のび太が珍しく勉強を頑張ったのに0点だったシーンとか)、とてもじゃないけど観続けられなくてやめた。今日は情緒が不安定過ぎる。

 

心の中で心電図の波線みたいなものが大揺れしているのが体感でわかる。本当に、グワングワンと波打っていて、内臓が気持ち悪い。

 

落ち着かせるために本を読んでみたけど、どうやらインプットが多過ぎてパニックになっているみたい。確かにこういう時はいつも、好きなものにですら触れられない。息を吸うだけでは死んでしまうように、取り入れた分外に出さないと、ダメらしい。と、いうことで今日の出来事を慌てて綴っている。

 

 

 

おわり

 

 

 

 

影のようにずっと、暗い感情が付き纏っている。

どこに居ても何をしていても何を思っていてもずっとずっと根のように張り付いて離れない。

 

光が強い程影も強くなるというのは誠その通りで、だから私は闇を好む。真っ暗ならば影すらも存在し得ない。影どころか、何もかもが闇に呑まれて、安息の空間が生まれる。

 

現実の世界、そんな風にはいかないけれど、ふっと気持ちが軽くなることがある。

 

親しい人からの愛、見知らぬ人の何気ない言葉、信教のような音楽、美しい絵画、色鮮やかな衣服、愛くるしい動物たち、息を呑むような自然、お酒、本、何もない自由な時間、あったかい布団、眠りに就く瞬間、心温まる物語、優しさ、平和、そういうものが束の間、羽根となって地面から浮かせてくれる。影から離してくれる。

 

そうやって生きている。

 

 

 

怒り

 

 

 

マスクが必須になって、皮膚過敏?感覚過敏?の人が話題になったことがあった。

それまでそんな症状があるなんて知らなかったし、私みたいなのは多いだろうから当人たちはとても大変な思いをしていたんだろうな、と思う。

 

なんでも病名を付けるから病気になるんだ、と言っていた人がいた。

病名があると凄く楽だ。病名があれば治療法も出てくる。

 

 

それの何がいけないんだろう。

 

 

思考や信念の違いは、結局、巡り巡って争いに繋がる。

 

 

違くていいじゃない。

困っている人には救いの手を、迷っている人には支えの言葉を、狂っている人には安全な網を、苦しんでいる人には癒しの場を、相手は鏡なんだ。そう思わないといけない。自分の分身だと。

 

 

本当の本当に、命の危機に陥った時だけ、自分を守ればいい。相手を蹴落とせばいい。

 

 

 

私は、他人の言動に対してとても敏感で、時折本物の針のように、突き刺さることがある。時折じゃない、常にだ。毎日そうだ。

相手が悪い人でないとわかっていても、小さな針がチクチクと刺さる。思い込みだとわかっていても、どうにもならない。

 

その分、とても優しい人に出会うと、体の芯から温まって、指の先まで嬉しくなる。嬉しくて胸が苦しくなって、涙が出る。世の中の色んな矛盾のことを考える。すべてがこんな人で埋め尽くされていたら、と思う。けれどきっとそんな人たちの間でも争いは起こるんだろうと思う。

 

 

最近はずっと、争いのことについてばかり考えてしまう。命に関わる争いだけの話ではない。むしろそういうものはすべて、根っこを見れば日常の小さな摩擦から起こっているんだ。なにもいきなり「戦争だ!人を殺せ!」と始まる訳じゃない。

 

だから日々の小さなやり取りに過敏になっているのかもしれない。あぁここからすべての争いが起こるんだ、これが地球の裏側の紛争に繋がっているんだ、と本気で思う。

 

だからできるだけ、優しくありたい。

決して出来た人間ではない。

過去に人を故意に傷付けたこともある。

それをずっと悔やんでいる。

時は戻らないから、ずっと悔やんでいる。

 

あの時の言動が、いつかの争いに繋がっているんだ。自分に全く関係ないと思うようなところで。

 

 

だから、償いの思いも含めて、私は優しくありたい。

赤の他人だって、もう二度と会わない相手だって、その時の自分にできる限りの心を込めて、行動したいと思う。

 

 

僕たちは世界を変えることができない。』のように、というかそこまで立派でもないんだから、勿論わたしは世界を変えることができない。

 

でもできるかもしれない。

可能性で言えば0.0000…1パーセント、というか完全にゼロパーセントだ。

 

でも、できるかもしれない。

 

だから私は、優しさにこだわって生きていく。

この先、何があるかわからないけど。

心がポッキリ折れるかもしれないし、冷酷になるかもしれない、

 

 

でもなんでもいいんだ、私は今、怒っているんだ。

怒りはいい。

生きるエネルギーになる。