世の人は我を何とも言わば言え我が為す事は我のみぞ知る

 

 

太陽の力は凄い。

と、先日まじまじと感じた。


雨は嫌いではないけれど、外に出かけるとなるとやっぱり晴れていてほしい。そして晴れていると生命力というものがみるみる湧いてくるのを全身に感じる。それがとても嬉しい。

 

 

 

一人の時間はよい。

(いつもいつも一人だと、たぶん寂しくて仕方なくなってしまうんだろうな。)

朝から晩まで働いて、空いている時間を上手く使えず、休日は疲れ果てて出掛ける気にもなれず、予定が入っても重い腰を上げて行くような、そんな生活をしばらく送った気がする。

一人で余裕を持って、ゆっくり考える暇などなかった。いかに窮屈な場所に居たかを痛感している。

 

 

 

普段の場所から全く知らない場所へ出てくると、自分を見返すよい機会が出来る。

普段私を縛り付けていたものを一斉に解いて、やりたい事だけをし、自分の判断のみに従って過ごす。

化粧をせず、衣服にも気を遣わず、野菜を食べなきゃなどとも考えず、周りに合わせたり周りの目を気にしたりもせず、日本人特有の曖昧な返事もせず、イエスならイエス、ノーならノー、愛想笑いもせず、気が向いたら出かけ疲れたら休む。

 

ずっとこんな生活は、金銭的にも精神的にもしていられないけれど、あのキチキチでピーンと突っ張って生き苦しい国から一歩、偶にでいいので出ると、とても清々しい。今なら空も飛べるはず。中学生の時音楽の授業で歌ったなぁ。何年か前にはライブも観に行き、草野マサムネさんの透き通った美し過ぎる声に、恐ろしいほど感動した記憶も蘇る。スピッツ、そうスピッツ、今一分ほど記憶が飛んでしまってね、空を飛ぶのは私じゃなくてスピッツだった、みたいなね、えっ?

 

 

 

 


よいことと、よくないことの比率は、やはりトントンにあるのだろうなと、今日また思う。

天は誰かに二物以上を与える分、試練もまた同じ分量で与えているのだろう、と。

良いものと良くないものを足し引きすると、結局、天は二物を与えていなくて、この諺を生み出した人はちゃんとそこまで考えていたのだと思うと、凄いなぁ。

 

私には秀でたものが何も無い分、地獄も無い。つまらない人生だなぁと思うこともあるけれど、本当は一番幸せなのかもしれない。平凡がいかによいことか、初めてしっかりと認識した。

 

 


そして人生は本当に一度切りなのだと、思う。

天国や地獄、輪廻転生、そういうものはあるのかもしれないけれど、今この時代にこの人間、私として生きられるのは、どうやったって一度切りなのだと、この一秒ももう戻っては来ないのだと、ひしひしと感じる。同じ事を同じ様に繰り返しても、絶対に同じにはならない。

ならばその たった一度のこの人生 天井天下 唯我独尊 咲いて散るのが華ならば 散らせてみせよう美しく       夜露死苦

と、ヤンキーが着てる長いジャケットみたいな、生き方をしてやろうではないか!と思うのである。ていうか「夜露死苦」って漢字のセンス悪過ぎない?けどいかにも“中学生の知り得る中で一番悪い漢字”ってかんじで微笑ましくない???

 

 

 

 

 

一人で海外旅行に行くと言うと、色んな人から心配される。今回は偶々テロやデモが起こったばかりの国々だったので(親日で安全な国だけれど)、仕方がない。


ただ、私は思うのである。

随分前にも書いたけれど、どこに居たって死ぬ時は死ぬし、生き延びる時は生き延びるのである。


勿論、論理的だか科学的だか統計学的だか何学的だか知らないけど、紛争の多い国や災害の多い地域に行ったらそりゃあ危ないだろう、けれどそういうことでなくって、じゃあどういうことかというともうこれ以上は勘弁してってかんじなんだけど、自分の家の中で何事もなく安全に暮らしていたって、百パーセント安全なわけではないということ、いつ災害が起こっていつ強盗がやってきていつ隕石が落っこちてきていつ命が途切れるかはわからないということ、そんなかんじのことである。


そういう、いつどこで何が起こるかなんて誰にもわかりゃしないのだから、得体も知れぬ死にビクビク怯えて家の中でうずくまるより、イェーーーイ!人生最高!ご飯美味しい!空綺麗!イェーーーイ!と、外へ飛び出したほうが10000000億倍、いいに決まっている。(と、私は思うのでこれからも続ける。そう思わない人はただ考え方が異なるだけであって、どちらも間違っていない。要は自分が正しいと思う道を、一番心地よいやり方で生きればオッケー、最高ハッピー、ということ)

 

 

よく、旅は「自分探しの為」「自分を変える為」だと言う人がいるし、それに対する嘲笑的な意見もよく聞く。

どっちでもいいけれど、私も、自分とは本来どういう人間なのか知りたいし(知らない人、言葉、文化、等に囲まれた場所でこそ本来の自分が現れると思っている)、色んな知識や経験を得て柔軟な人間になりたい。それからコンプレックスを克服したい。勿論それ以前に、純粋にその土地に興味があって、行ってみたいと思うから出掛けるのだけれど…

私はとにかく度胸が無い。ここ最近つくづくそう痛感し、気付く度自分に対してイライラしてしまう。お前は一体何をグズグズしとんじゃあ!ワレェ!いつまでウジウジしとんじゃあ!ワレェ!串もんは二度づけ禁止なんじゃあ!ワレェ!というかんじ。

だから言葉も文化も異なる所へ自らをほっぽり出して、自分の性格や行動傾向を確認して、どういう時だと臆病になるのか、どういう時なら大丈夫なのか、じゃあこうすれば改善できるのでは、ということをせねばいけないのである。半ば義務的に。(とは言っても依然ビビりなので、全く言葉も通じない、食や生活環境も180度違う、ような国へはまだ行けない。)

そしてコンプレックスが酷い。どうしてこうなってしまったのか自分でもわからないくらい酷い。今ではだいぶマシになったものの、時折スコールみたいにやってくる。コンプレックスというのは人との関わりの中で生まれるし、その人と密な関係であればあるほど、色濃く浮き出てくる、そこで一旦根本から全く違う人々のいる場所へ行ったら、人がいかに多種多様で、良し悪しのポイントも各々で、満場一致の正しさなどどこにもないということを、身をもって確認できたり、そしてそれを自分の意識の奥深くにねじ込めたりするのではないかといつも、期待するのである。

 


ただ、結局は、何も変わらない。旅は私を何とも変えてはくれないし、コンプレックスはひとつも消えない。しかしながら変わらずとも消えずとも、太刀打ちできる方法はあるのだと、よ〜うやく、わかった。は〜、長かった。苦しかった。何かが変わるかどうかは、自分が一歩動けるか、物理的にも一歩、精神的にも一歩、今居るところからズレてみて、見る方向も変えてみて、ダメならもう一歩動いてみて、が、できるかどうか、ただそれだけなのだった。や〜、めでたい。ありがたい。蟻が10匹アリガトウ、千が9個でセンキュー、ダンケがシェーンでダンケシェーン、もうなんでもバッチコイってかんじ!今日も生きててよかったー!

 

 

 

と、旅について初めて真面目に考えた。気がする。

 

 

 


「世界には絶対に正しいことなどない」

「自分が面白そうだなと思ったことにただ一歩を踏み出す。うまくいく時もあれば、いかない時もある。それだけのことだ。」

旅のお供に持って行った本の著者も、そんなことを言っていた。こういう言葉に何度、背中を押されていることか。

 

 

 

さてまた、鳥籠へ戻らねばいけない。

またしばらくは大人しく、ピヨピヨと生活しなければいけないな。

よいのである。よくはないけれど、今、ひとつ、軸が一本植わったので、なんでもよいのである。

どこにいて何をしていても、大丈夫なのである。と、言い聞かせて、またこれから、精一杯生きていこうではないか。

 

 

 


長!

 

 

 

今宵、決戦

 

 

積み木の騙し絵みたいな、ジャンケンみたいな、美容室の外にある三色のクルクルみたいな、そんな生活を、ここ数日は特に、している。

 

甘辛ミックスみたいな、オジカワみたいな、まぐろソフトみたいな、そういう矛盾が、この陰湿で厭らしい理不尽を生み出しているのかもしれない。そういう時代なのかもしれない。

 

 

箱の四隅を移動しながら、中心の対象物を見る。見方を変えれば見えるものは変わる。当たり前だ。顔は正面にしか付いてないし、背中は背にあるから背中だ。

見方を変えたって根本的な物事が変わる訳ではない。今まで見ていた都合の悪いものを、見ないようにしただけだ。

 

 

じゃあ私はどうしたいのか。

この世界の住人は私一人なのに、知らず知らずのうちに、クローンを作ってしまっている。

 

 

 

 

百度

 

 

 

時々、自分の中の卑しさに気付いてハッとする。無意識の、心の奥の奥の隅っこにいつもはじっと座っていて、ある時フッと立ち上がる、その時、私は自分がとても卑しいと知る。

 


誰の中にもあるものなんだろう。たぶん、この世に産み落とされた時から、無垢の天使に見える赤ん坊にだって、どこかドロッと黒いものが、あのフワフワと小さい体の中に、沈んでいるんだろう。

 

 

 

咳はずっと止まらないし夢はいつも夢のまま、夜はいつだって眠れなくってお酒を飲めば二日酔い、

 


マザー・テレサには一生なれないかもしれない。

 

 

許しなさい、人に優しくしなさい、正直で誠実でありなさい、作り続けなさい、一番いいものを分け与えなさい、

 

 

 

なれなくてもいいや。

自分の正しさを信じよう。

 

 

 

 

のえへんす

 

 

人生は磁石のように出来ている。

私が磁石なのか、人生というものが磁石なのか、S極なのかN極なのか、両方持っているのか、よくわからないけれど、そういうふうに出来ている気がする。

 

今日、"ねこじゃすり"という言葉を二度聞いた。お昼のバラエティ番組と、夜のバラエティ番組で。部屋のテレビと職場のテレビで。どちらもたまたま、何の気なしに見ていた番組で、たまたま猫が出ていて、そこでどちらにも"ねこじゃすり"が出てきたのである。

どうやら今流行ってはいるらしいが、それにしても偶然だなと思った。

 

もうひとつ、栃木県の"市貝町"というところ。つい一、二日前にテレビか新聞か何かで見、今日もたまたま見ていたテレビ番組に一瞬、出てきたのである。

 

 

こういうことが、よくある。

意識の問題だと言う人もいるけれど、そうでないこともよくある。引き寄せているのだ。磁石のように、私は"ねこじゃすり"と"市貝町"を引き寄せたのだ。どうしてその二つなのかはちょっとどなたか説明してほしい。

 

 

その類なのかは曖昧だけれど、今度行こうとしている国々で、相次いで大きな地震やテロが起こっている。しかしながら地震やテロというのは本当に様々な国でひっきりなしに起こっていて、いつもニュースでその様子は流れているはずで、旅行先だから特別目に付き気にするだけであろうが、う〜ん、試されているのかなぁ、と思ってしまう。お前はこれに揺さぶられるのか、と。

 

 

最近試されている気がするのだ。あらゆる場面で。神なのか、仏なのか、ご先祖なのか、過去や未来の自分なのか、私を試さんとするその正体はわからないけれど、なんだか最近そう感じるのである。

 

職場にいる、生理的というより道理的に無理な人(人と呼ぶにも心苦しい)に関しても、試されているのではないかと思う。百億パーセントでその人(人と呼)が人間的に欠落していて悪いというか、善し悪しというより信じ難いというか受け入れ難いというか理解しがたい人(人)なんだが、それを忌み嫌うのではなく、かと言って好かねばならないという訳でもなく、いかに平らになだらかに、ただそれをそこにいるものとし、それに対して意識を持たずに過ごせるか、空を見て青いと思うが如く、陽の下で暖かいと感じるが如く、そこにその人が居、動き、言葉を発しているのを見て、あぁいるなぁ、動いているなぁ、喋っているなぁという、表面一枚それだけを受け止めて過ごせるか、等を、試されているのだ、これは試練なのだ、と、己を思い込ませ耐え忍んでいる今日この頃なのである。苦心。

というかこれができたら結構な解脱に達するのではないか。流行語としてのサトラーでなく本物の悟りを開けるのではないか。涅槃じゃ涅槃。私はブッダになるのである。比喩としての仏でなく、本物のブッダになるのである。釈迦や釈迦。仏と釈迦の違いもわからないけどまぁいずれ私はそういうものになるのである。アッラー

 

 

最近読んだ紀行本が大変に面白くて、というかその著者が天才的にユーモラスで、一層旅に出たくなった。災害があろうとテロがあろうと生き延びる人は生き延びるし、意外と自分の部屋の中でポックリ逝っちゃったりして、かつてチヤホヤされ続けたアイドルだって病気に罹ってしまったり、人生は何が起こるのかわからないのである。わからないくらいが面白いと、彼も言っていた。そういうものである。

 

 

 

ところで"のえへんす"というのは、ホットコーヒーという意味である。と、今朝見た夢の中ではそういうことになっていた。朝起きてこれはきっと何かのお告げに違いない、きっとどこかの国の小さな村の未開拓の部族の言葉で、そこにいる年齢不詳の神聖なるヒゲモジャの長からのお告げに違いない、と思い、寝ぼけ眼でソッコーグーグルしたらノーヒットだった。ピッチャーだったら褒め称えられるところだけれど私としてはアッチャーというところ。この世に"のえへんす"という言葉は存在しないのだ。今のところ。でももしかすると、やはりどこか遠くの部族の長が、年に一度の村の祭りか祈りか何かの日に、特別な衣装を身に纏い、顔や体には神聖なる動物の血で模様を描き、村人全員に囲まれ、人々の声と風が止んだ一瞬の間、両手を天に捧げて一言、叫ぶのである。

 

 

  ノ  エ  ヘ  ン  ス  !  !  !  !  !

 

 

 

 

 

心に太陽を持て

 

 

 

毎日毎日生きていても、ちゃんと生きたなぁと思う日はとても少ない。

 


仕事を頑張ったな、でも、大好きな人たちと楽しく過ごしたな、でも、旅行に行ったことでも、なんでもいい、できる限り多く、しっかりと生きたい。

 

 

 

今日は、とてもよい一日だった。

朝早く起きて、洗濯機も回し、ご飯ものんびり食べ、ちゃんとお化粧をして、好きな服を着て、電車に乗った。


観たかった映画を観た。たまたま水曜日のレディースデーで、安かった。気分が良くて、映画のパンフレットも買った。半券で、お昼ご飯に杏仁豆腐が付いてきた。こういう小さな特典小さな幸せが、嬉しい。


大好きな本屋に行った。"大好きな"本屋ではなく、大好きな"本屋"、違わないようで、違う。

 

本屋で本を見ている時が、一番好きかもしれない。洋服を見ている時でも、テレビや映画を見ている時でも、お笑いやショーやライブを見てる時でもなく、美味しいご飯を食べるよりも親しい友人と一緒にいるよりも、何よりも好きかもしれない。しかしながら天気の良い平日、ほとんど貸切の電車に乗って田舎道を眺める事、そして電車に揺られながら眠る時も負けず劣らず。

 

紀行本が本当に好きで、今日も七冊買ってしまった。もう一冊買おうと思っていたんだけれど、先月同じ本を買った気がして、止めた。先月も六冊ほど買ったし、毎月一冊以上買っているくせに、本を読むペースは月に一冊か二冊程度。申し訳ない事に眠たくなってしまうのだ、文字を読んでいると。それがどんなに魅力的であっても。眠気には勝てないなぁ。読みたい本と本気で向き合える時でないと、読めないというのもある。文字が、言葉が、全く頭に入ってこなくって。本を開いて、あぁ無理だと思うと、一切読めない。それから知らない言葉や意味の曖昧な言葉をひとつ残らず辞書を引きながら読んでいるというのも一つの理由。(そのくせ全く覚えない。同じ言葉を何度も調べている。記憶力というものの存在を疑う)そりゃあ前に同じ本を買ったかどうかなんて忘れてしまうわな。読書家なんて一生言えない~。

ちなみに読書家とはどのくらいの冊数を読んでいればそう言えるのか、調べてみたら、だいたい年間100冊、ひと月にして8-9冊らしい。毎月8-9冊買ってるだけで読書家じゃあダメかなぁ~。

 


本屋にいると、時間があっという間に過ぎてしまう。超高速で本棚を見ようとしても、一時間はかかる。背文字を目で追うのが、とても楽しい。目に留まったタイトルの本を手に取る動作が好き。裏表紙のあらすじを見る前のワクワクが好き。あらすじをザッと読んでこれだ!とピンと来た時の感覚が好き。

 

 

タイトルって、本でも曲でもなんであっても、本当に大切だなぁと思う。それが全てではないけれど、人は見た目が9割、のようなかんじで、幾ら中身がよくてもパッと見た時に興味を持ってもらえなければ、中身を知ってもらうのは難しい。

作った人の感覚、一番大切な部分、センス、色んなものが凝縮されている、タイトルはとても興味深い。

 

 

と、本についてタラタラ長々熱々と、語ってしまった~。

この世の、(私個人が思う)素晴らしい本を全て読み切れないまま死んでいくのがとても惜しい。あの世にも本屋があったらいいな~、本屋くらいあるか~、あるよね~、なけりゃ作ればいいよね~、と、あの世での楽しみを今、ひとつ見つけた。ハッピー。

 

 


話変わって今日、お昼ご飯を食べている時、隣の席に座っていた夫婦(30代半ば程)が、ずーっと、口ゲンカしていたの。口ゲンカというか、ずっと互いに不平不満をブツブツ言い合っている、というかんじ。奥さんは口が悪く、旦那さんは終始貧乏揺すりをしていた。そして二人の間には二歳程の可愛らしい女の子が。その子がちょっと騒ぐだけで「うるせぇ」だの「ちゃんと食べろ」だの、それに対して旦那さんが貧乏揺すりをしながらまた何やら文句を言い、それにまた暴言で返す奥さん。泣き出す女の子。

他人の家庭に口出しはできないけれど、なんというか、残念だなぁと思った。ずっと、負のオーラが出ている、なんだか残念だなぁ、と。私が見たのはほんの一瞬の場面だけであって、もしかしたら普段はもっと、幸せで溢れているのかもしれない、だからこんなところでゴニョゴニョ言うのもどうなんだかな~、と思いつつも、なんだかな~と、思ってしまう。あの女の子が、最後帰る時私にニコッと笑ってくれたように、この先大人になってもずっと笑ってくれていますように、と思わず祈ってしまった。

 

 

 

 

とりわけ特別でもない今日みたいな日常にも、ネタは沢山あるもんだなぁと感じる。よいものも、よくないものも。

人は一日に六万回、考え事をするらしい。

そしてその大半が、ネガティブなものだという。

そう思うと、今日一日がよい日だったと思えるのは、とても素晴らしいことだなぁと思った。

 

 

 

熊本地震からもう三年も経っていたり、パリのノートルダム大聖堂が燃えてしまったり、タイで若い日本人たちが詐欺行為を行なっていたり、毎日ショッキングなニュースで溢れ返っているけれど、それにプラスして(というよりこちらがメインで)自分自身の中での葛藤や漠然とした不安や幻覚のような希望に悩まされたりもするけれど、

 

「心に太陽を持て。唇に歌を持て。他人の為に言葉を持て。勇気を失うな。」

 


今日はこの言葉に励まされた。

明日も生きよう。私の為に。巡り巡っていつか誰かの為にもなるように。

 

 

 

 

春は何処へ桜は六分

 

さすがにもう春だと思って、マフラーもタイツも手袋も置いて来たら、堂々と冬が居座っていて驚いた。やられた。辛うじて、保険として冬の上着を着てきたのが、救いだった。

 

首が寒い。

傘も持っていないのに、雨まで降ってきた。

 

ネギの頭の、辛〜い部分を食べてしまい、口の中がいつまでも臭い。明日の仕事が心配。

 

そしてなぜかお腹も痛い。

原因不明の体調不良ほど不安。

 

電車に乗れば、隣でカップルがずっと、イチャイチャしている。

 

携帯の調子もなんだか良くない。

 

 

こういう日がたまにある。

大したことはないのだけれど、小さな負が、続く時。(カップルは、悪くないけど…)

けれど大抵そういう日が過ぎれば、その分のよい日がやってくる。だから気にしない。

 

 

今日は一日、仮面を被っているような気分だった。着ぐるみを着ている、と言う方が近いかもしれない。嘘を吐いた訳でも、腹の内を隠した訳でも、猫を被った訳でも、何でもないのだけれど、親しい人と話をしている時、何か、自分の外側に一枚膜が張っているような、不思議な感覚だった。悪い気分ではなかった。こういう生き方も悪くない、と思った。

 

 

 

夏と冬の気温を足して半分こにできたらいいのに、と、毎年毎年、夏と冬がやって来る度に思う。夏は暑過ぎるし、冬は寒過ぎる。人間は恒温動物と言うけれど、結構ギリギリで生きている。確かに極端な場に居なければ簡単には死なないけれど、正直毎年キツイ。夏は本当に息が苦しくなるほど暑いし、冬は心臓が止まりそうになるほど寒い。

 

なんというか、絶対に無理なことだよねぇ。こうやって、どんどん地球は滅亡に向かっていくのだね。(何が)

 

億万長者もホームレスに部屋をひとつくらいあげてあげれば、と思うけれど、そういうことができそうでできないから、人類も近いうちに滅ぶ。

 

どちらにせよ私たちはあと数十年の命、地が割れ天が崩れない限り、平和なうちに生き終えられる、のなら、ラッキーだ。

 

 

 

 

3月28日木曜日 晴れ

 

 

今日は何もできなかった。

一日中眠っているのは体が疲れてしまうし、偶の休みなのだからと、辛うじて朝に間に合う時間に起き上がってみたものの、頭はずっとボンヤリしている。

 

パンを食べコーヒーを飲み歯を磨き、今読み進めているお気に入りの本の一節を読み、映画を一作観、ドラマを観、適当な動画を数個観、手記を書き、と、何かしらしてみたものの、なんとも気力が沸かない。すべきことも、好きなことも、何にもやろうという気にならないのである。はて困った。

 

 布団もぐちゃぐちゃのまま、髪もボサボサのまま、顔を洗いもせず、パジャマも着たまま、部屋を片付けもせずに、なんだかずっと、ボンヤリしているのである。

 

 

お湯に浸かって洗濯をしてお酒を飲んで、気を取り直したかと思ったけれどやはり、終日ダメだった。生きる気力がどこかへ吸い取られていく。まぁこんな日もある。

 

 

生きることに意味など無くていいのだろうけど、普段はあまり考えてもいないけれど、こういう少し弱った時に、ついふと考えてしまう。勿論こんな時に意味など見つかる筈もない。自分で自分を沼に陥れている。愚か者。

けれど一旦考えてしまい、そしてその意味が見出せないと、本当に困ってしまう。明日の朝目を覚ます意味がわからない。気力が起こらない。

こんなこと、一々考えなくてよいところで生活したい。窮屈過ぎる。