春立ちぬ

 

 

我が家の一大イベントと言えば、クリスマスでもお正月でもなく、節分のように思う。

 

毎年クリスマスに豪勢な夕食を食べる訳でもなく、お正月も各々がフラフラと居間に下りてきて、新年の挨拶もそこそこにダラダラとお節料理を食べていて。

 

 

けれど節分は、何故か皆で一致団結して(?)ちゃ〜んと「鬼は〜外〜、福は〜内〜」って豆投げて、皆で恵方を向いて各々がでっかい恵方巻を黙々と食べて、歳の数だけ豆を食べる。

これだけは毎年必ず行っているの、なんだかよく考えると笑えるなぁ。

 

子どもの頃からの決まった行事だったので、大人になった今でも「今年もやらなくちゃ!」という義務感が芽生える。

 

だからなのか、毎年、節分を迎えると気持ちがスッキリするというか、我が家によい風が吹く気がするというか。

新年でも誕生日でもなく、この日に。

 

石田ゆり子さんが、節分を期にいろんなことが動き出すと言われている、と言っていて、なるほどそういうことなのかな、と思う。

最近、できるだけ歩くようにしていると言っていて、私も今日(たまたま)二時間程歩いたので、嬉しかった。

 

 

ところで恵方巻を食べるにあたってのルールだけれど、

①切らずに食べる

恵方を向いて食べる

③願い事を考えながら黙って食べ切る

 

恵方というのは、なんだか縁起のよい神様のことで、つまりその方角にはその神様がいるということらしい。

西南西、スマホに入っているコンパス機能を使ってもどの位置なのかイマイチわからなくててこずった。

 

 

ハッ!願い事考えるの忘れた!

 

 

 

 

と、いう訳でいつのまにやら立春

今年の冬は暖冬で、と言っても寒いことに変わりはないし、というか去年もその前もっていうか毎年暖冬って言ってる気がするしなんなら夏も夏で冷夏だって言われてる割に結局暑いもんは暑いし、なんていうか一々毎年律儀に"例年に比べて〜"とか、"去年より3度暖かくて〜"云々、言わんでもええんとちゃいまっか〜儲かりまっか〜、ボチボチでんなぁ〜、さすれば立春というのすら、暦の上でと言われたって実際にはまだ冬だし寒いし春感もゼロだし、あぁでもこの間は確かに日中暖かくてほっこりしたな〜、いやでもそんなん言うたら立春の前にだって暖かい日ありましたやん何言うとんのでっか儲かりまっかボチボチでんなぁ〜、と、世間があれやこれやニュースするのに忙しい中わたしは相変わらずのらりくらり生活していてしかしながら結局、なんでもないようなことが幸せなんだよぅ、と思うに至ったのである。ふざけているようで大真面目なのである。本当に本当に、1×1が1なくらい本当に、小さな事を幸せと思えることが、本当に幸せな事なのである。

 

 

 

 

 

 

今日はすこぶる悪い事が二つ三つ続いた。

冤罪を被ったような気分。とても不快だ。

 

あらゆる負の感情は、「悲しい」に行き着くと、前にも思ったことがある。

怒りも、悔しさも、虚しさも、全て、最終的に、「悲しい」に収まる。

 

だから私は今、とても悲しい。

苛立ち、歯を食いしばり、力が抜け、全てを通過して、ただただ悲しいのである。

 

 

 

しかしながらいつまでもグズグズ落ち込んではいられない。

むしろこの悲しさを、また別の怒りに転化すべきだ。

 

お前らに割いてやる時間などない、どうして私がお前らに一々心沈めねばならんのだ。

 

最終的に収まらなければ、心の中で殺したっていい。頭の中でもいい。

 

 

 

 

そして悪い事の後には必ず良い事が起こる(逆もまた然り)、という不可解且つ絶対的な法則に則って、今回は相当デカい、すこぶる良い事がやって来る。予感とかそういうんでなく、決まり事。必然なのだ。

 

だからまぁ、よしとしよう。

全然よくはないんだけどむしろマジでよくないんだけど、悪霊退散禅譲放伐敵は本能寺にあり、カーーーーーーーーーッ!

 

 

 

 

 

 

 

月が明るくて救われた。

 

毎日死にたいと思いながら生きている。

死にたいというより、終わりたいという気持ち。

苦しい時も楽しい時も、何気なく道を歩いている時も、今、終わったらいいなと思う。

 

 

アメリカとイランの対立について、「揉めてる暇があったらオーストラリアの火事をなんとかしろ」と言う人を何人か見かけた。言いたい事はわかる。私もそうとも思う。けれどそれとこれとは別問題だろう。そしてあれやこれや言っている私達は結局、あれやこれや言っているだけで、今日もあったかいコタツの中でテレビでも点けながら無表情で文字を打ち込んでいるんだろう。

 

 

貧しさとは何か。豊かさとは何か。

そして優しさとは。

 

私は昨日、酒を飲みながら、好きなつまみを食らいながら、テレビに映る貧困児を見て、月三千円の金を渋ったのだ。

 

私は結局、そういう人間なんだ。

自分が何よりも一番で、高みの見物をしながら、ここぞという時だけひょいっと下りて、おっとっと、っという時になったらまた戻って、そういう人間なんだ。

 

 

 

今日もまた、人と上手くいかなかった。

上手くいかなかったと思っているのは恐らく自分だけなんだろうけれど、でもこの自分がそう思っているのだから、上手くいかなかったんだろう。

 

最近ずっとそう。

自分で自分を陥れている事もわかっているけれど、なんだかどうにもならない。

 

 

脳味噌、半分くらい無駄な気がする。

というかこの体、たぶん半分は不要なもので構成されている。

 

 

 

湯たんぽ

 

 

一日中、旅行の事を考えていた。

旅はいいね、計画している時からもう旅なんだもん、いやぁもう、その地のことを考えた時から旅というのは始まっているものだ。

 

せっかくいい気分だったのに、テレビを点けると嫌なニュースがやっている。情報社会ってこんなに恐ろしかったっけ。

嫌だなぁ嫌だなぁ、悲しくなるなぁ。

自分とは全く関係ない事に、関係してたってどうせなんにもできやしないのに、偉そうに心を痛めている。バカヤロウ。

 

 

「上手な生き方」なる本を3冊読んでみたけど、わかったような、わかんないような、こんなの読んだって結局は自分次第だけど、読んだ時間は無駄に思わなかった。

 

 

外で音が鳴っている。

たぶん雨だろう。でも雨よりは雹のような音がする。雹なんてほとんど見たことがないな。でも窓は開けない。カーテンも開けない。暗くて何にも見えないから。それよりも寒い。

 

 

 

 

今日も生きられて本当によかった。

明日もきっと、いい事が起こる。

 

 

冬は雪

 

 

嫌いな人の事を、実は羨ましいと思っているのかもしれない。

 

けれどやっぱり嫌いだと思うのは、その人がどんな人であれ、どれだけ愛される人間であろうとも、私にとっては害のある生き物でしかないということ。

 

 

戦いたい訳じゃない。

出来る限り別の世界で生きていたい。

 

世界はひとつじゃない癖に、時々無茶苦茶に一緒くたにする。

 

 

 

秋は月

 

 

今日はとても穏やかな一日だった。

こんな日は滅多にない。

 

すべてが水平なのだ。

波一つ立たない海の上で、温かな太陽の熱を浴びながら、小舟に乗っている。そんな気分なのである。

 

とても素晴らしい日だった。

 

 

けれど私は今日も、人を殺している。

毎日平和を掲げた顔をしながら、心の中では毎日、殺戮を行なっているのだ。

 

目に見えないものなど結局何も見えないのだと思いながら。

 

 

 

来世も現世も

 

 

私は生まれ変わったら、大樹になりたい。

奥の奥の森の奥の、人間が誰も立ち入れないような、厳かで、清らかで、穏やかな静けさに包まれた場所に、ひっそりと、しっかりと、立っている、大樹になりたい。

 

地震で八つ裂きにされることのないしつこい根と、嵐に吹き飛ばされることのない頑丈な幹を持ち、枝先には豊富な実を生らせ、夏には木陰となる葉を、冬には暖を取る蔵を、そして色んな動物に囲まれて、柔らかく、暮らしたい。

 

 

 

昔、眠れない時に聴く最初の曲は決まって、RADWIMPSの『25コ目の染色体』だった。

 

不安な時、勝負事の前、緊張している時、心を落ち着かせる為に聴くのもやっぱり、そうだった。

励ましの曲でも、アゲアゲの曲でも、なんでもないけれど、なんでかこれが一番落ち着いた。

 

 

今だにこれを聴くと、暗闇から薄明るくなっていく窓の外の景色を思い出す。夏はそれが早く、冬は毛布に包まりながら、ずっと、ボーッと空の色が変わっていくのを、見ていた。

 

 

 

この命の飼い主は自分だ、と思う。

勝ち負けではないけれど、でも、負けてたまるか、と、思う。