来世も現世も

 

 

私は生まれ変わったら、大樹になりたい。

奥の奥の森の奥の、人間が誰も立ち入れないような、厳かで、清らかで、穏やかな静けさに包まれた場所に、ひっそりと、しっかりと、立っている、大樹になりたい。

 

地震で八つ裂きにされることのないしつこい根と、嵐に吹き飛ばされることのない頑丈な幹を持ち、枝先には豊富な実を生らせ、夏には木陰となる葉を、冬には暖を取る蔵を、そして色んな動物に囲まれて、柔らかく、暮らしたい。

 

 

 

昔、眠れない時に聴く最初の曲は決まって、RADWIMPSの『25コ目の染色体』だった。

 

不安な時、勝負事の前、緊張している時、心を落ち着かせる為に聴くのもやっぱり、そうだった。

励ましの曲でも、アゲアゲの曲でも、なんでもないけれど、なんでかこれが一番落ち着いた。

 

 

今だにこれを聴くと、暗闇から薄明るくなっていく窓の外の景色を思い出す。夏はそれが早く、冬は毛布に包まりながら、ずっと、ボーッと空の色が変わっていくのを、見ていた。

 

 

 

この命の飼い主は自分だ、と思う。

勝ち負けではないけれど、でも、負けてたまるか、と、思う。

 

 

 

君は幸せ者

 

 

部屋で一人、好き勝手お酒を飲んでいる時、至極だと思うことがある。

 

好きな映画を観て、好きな音楽を聴いて、好きな本を読んで、今日のことも明日のことも考えずに、好きな旅人の一節みたいに、今を旅している時、これが極楽だと思う。

 

 

テレビを見ていて、自分の腹を痛めて産んだ子供を虐待、最悪の場合殺している親や、不可解な交通事故、自然の恐ろしさ、人間の精神的な弱さや身体的な弱さ、色んなものを見て、悲しくなる。

 

それでも、自分はツイていると思う。

今、生きているから。

生き残っているから。

 

自分の意思と、この命と、別の部屋にある気がする。

運だけでも上手くはいかないけれど、それでも、なんであれ、今、今日、生きていることは、とても幸運なことだと思う。

 

 

死ぬことはいつだってできる。

死ぬ権利は、自分自身が死ぬ権利は、唯一自分にあると思う。

それまでは、運に任せても、気で乗り切っても、なんでも、生き抜こう。

 

 

私は今、とってもハッピーだ。

 

 

 

イキガミ

 

 

NHKかなんかの、不登校の高校生くらいの子達の、ドキュメンタリーを観ている。

 

各々、何らかのきっかけで学校に行けなくなって、枠から外れてしまって、戻りたいと思っていても戻れなくて、そして共通して意識は死に向かっている。

 

 

あぁわかるなぁ。

よぉくわかるよぉ、と思いながら、(ちょいと酔っ払いながら、)見守っている。

 

 

日本は特に、そういう国なのかもしれない。

一律性、大衆、マジョリティ、皆と同じである事が正しい事で、そこから一歩外に出てしまうと、悪者になりかねない。

そういう境目で迷ってしまうと、この日本で生きていくには生き辛くなってしまう。

 

 

私は少し大人になって、彼らの悩みを見ていると、「大丈夫だよ、皆と同じでなくていいんだよ、むしろあなたはとっても素敵だよ」と、言いたくなってくる。そんなこと言われてもうまく生きられない彼らの気持ちもよぉくわかる。

 

 

私も今だに、実は、死に向かいながら生きているんだ。

死なないように、死にたいと思わないように、時折自分を誤魔化しながら、生きている。

これが正しいのかはよくわからないし、前より色んな事をぼやかすようになったし、何が一番なのか、やっぱりわからない。

 

 

人混みの中にいると、自分がここに存在しているのかわからなくなることがある。それで、透明人間になったつもりで闊歩してみると、とても清々しかったりする。

 

生きるのに価値などなくてもいいと思う。けれど価値を最重視するようなこの場所では、とても生きにくい。

 

 

大人になった私は別として、未成年の子たちなんか絶対に、周囲の大人の援護が絶対的に、必要だ。彼らなんて、産まれたての子鹿みたいなもんだから。いくら大人びている子だってなんだって、子鹿は自力で足を震わせながら立ち上がるだなんだと言われたって、うるせぇなんであったって、そうなのだ。

 

 

立派な大人になりたい。

地位も名誉も金も、要らない。

あれば力になるけれど、それらがなくとも、ない場所で、立派になりたい。

今までは守られる側で生きてきたけれど、これから少しずつ、守れる立場で生きていきたい。

 

なんだか初めて、そんなこと思ったかもしれないなぁ。(酔っ払いも含む)

 

 

 

 

 

即身仏

 

 

というものを知った。

前にも聞いたことのあったような気もするけれど、何にでもタイミングというものがあるなぁと改めて思う。

 

気になってインターネットでササッと調べて事実かどうかの確認もせず鵜呑みにした情報(調べものをする時の文章を読む行為があまり得意でない)かつ概要だけを把握して自己解釈したものなので、正しくはわからないけれど、とにかくその即身仏という存在が、言葉にできぬ凄みを持っているのである。

 

 

簡単に言うと、お坊さんが、世の安泰の為に、あるいは自身の死後の為に?、最後の最後まで読経しながら亡くなっていく、その亡くなったお坊さんを即身仏というらしいのだけれど、その最後に向けた修行というのか?それが凄まじいのだ。

 

まず、通常の食事から徐々に量や種類を減らしていき、体から余分なもの(脂肪など)を落としていき、そのうち摂取するのは塩と水のみになり、いよいよ終盤に向かう頃になると、地下に作られた、座禅を組める範囲のみの、もはや棺のような所へ閉じこもり、水と空気のみを送る筒だけが通され、あとはそこでひたすら、読経をするのだそうだ。

 

毎日決まった時間に鈴を鳴らし、地上の者はその音で生存を確認する。音が鳴らなくなると亡くなったと見なされ、一旦地上に出された後、(何らかの処置を施して)また、地下に戻されるのだとかなんだとか。

それからまたおよそ三年、地下から引き上げられた時に、ミイラの状態になっていればめでたく(?)即身仏と呼ばれるらしい。(人間の形を留めず朽ち果ててしまったものは、無縁仏として供養されるのだとか)

ミイラが予め脳味噌や内臓を取り出され薬剤で防腐処理をされるのに対して、即身仏は時間をかけて自然に乾燥していくので、実際この二つは別物とされているらしい。

 

 

インターネット上で実際の即身仏の写真もいくつか見たけれど、不思議なことに、これまで見たことのあるミイラとは違って「怖い」「不気味」といった感情が湧かなかった。威厳や、尊さというものを、先ず感じたのだと思う。

 

 

 

私の人生からしたら到底考えられない行為、仕組みであって、調べた時には本当に衝撃だった。

 

どんな世にも人の為に命を削っている人がいて、精神の奥底から平和を祈っている人がいて、あぁ素晴らしいなぁでは片付けられない。片付けてはいけない、と思う。

 

 

皆、平和を願っているはずだ。

痛み、悲しみ、苦しみ、争い、差別、事件、そういったものを心の底から望んでいる人などいないはずなのだ。そんなことは誰だって知っている。

それでも、弱い生き物だから、平和よりも先ず自分が大事だから、そういう時、正当防衛的な矛盾が生まれて、少し歪みながらも正常に世界は動く。

 

 

何の事を言っているのか、自分でもわからなくなってきたけれど。

 

 

毎日みんな、色々な悩みを隠し持って、強みを盾にして、頑張って生きているなぁと思ったこと。

たぶん連結していないけれど、今日一日であれこれ考えて考え着いた先が、そういうことだった。

 

 

 

明日も精一杯、生きよう。

 

 

 

 

なんだかうまくいかない。

これまでもずっと、何かが上手くいったことは、なかった、と言えばなかった。

 

だから普通。

私のこの生活には、これが普通。

わかっていても、気は沈む。

 

 

木の葉みたいに、太陽を目一杯浴びて、二酸化炭素を吸って、酸素を吐き出すみたいに、嫌な事を全部吸収して、よいことに変えられたらいいのにねぇ。

 

 

ずっと、映画を観ているような、そんな日々を送れたらいいのになぁと、今日、映画館にいて思った。

映画を観ている時の、自分を忘れ去る感覚、忘れている事すら忘れているあの空間、心地よさ、ここだけでいいなぁ

 

 

毎日悲しいニュースを見て、怒りや苦しさを覚えて、人とすれ違って、虚しくなって、意味もなくゼロから振り返って、気が抜けて、色んな事に意味が見出せなくなっていって、それでも時折温かいものに触れて明日が楽しみになって、勇気と希望が持て、そんなことの繰り返し。

 

 

あぁモヤモヤする。

全部ゴッチャまぜにして、ギュウギュウに丸めて、ガシャガシャに振って、それで海にでも空にでも、放り投げてしまいたい。

 

 

心臓

 

 

近頃ずっと、よくない夢ばかり見る。

夢占いによれば悪い意味ではないようだけど、にしたって寝起きが良くないんだもん、いいわけはない。

 

苦手な事を苦手と意識し過ぎて、ずっとずっと囚われている感じ。寝ている時までやめてくれ〜、と思う。

 

 

普段、何も考えないように生活しているけれど、時折その意識が切れて、その一瞬の隙間からダババ〜ッと色んな物事が入ってきて、ウワァ〜〜〜、と、なる。気分の高低差が激し過ぎて、高山病になりそう。酸素代わりに、本を読む。本はいい。避難所のようであり、保健室のようであり、泉であり、要塞である。

 

 

時々、んなことあるかい!ということで物凄く落ち込む。端から見たら、膝下程しかない川で溺れているかのよう、でも私の中では完全に溺れている。(と思っている)

 

 

いつか、あらゆる人、関わりのある、かつ大切な人たち、すべてに、見放されるだろうな、と思っている。

自分でも嫌な奴だな、と本当に思う。

 

 

人生一度きり、と思う時と、46億年の内の80年(生きられるは知らないけど)、と思う時と、ある。希望と絶望の振れ幅が大きい。

ただ共通して言えることは、どちらにしたって、自分の思うように生きりゃあええやんけぇ〜、なぁ〜、と、いうこと。

 

 

 

はー!なんだか書いても気分は晴れないけど、まー、こんな日もあるよなー!

 

 

小雨の夜に

 

小雨が降っている。

 

 

ちょっとした知り合いと軽くお酒を飲みに行った。

「今日は夜から雨だそうですよ。」と彼女が言う。

夜というのが5時なのか6時なのか、それとも10時なのか深夜なのか、確認をしておいてもよかったなと思う。


21時前、最寄りの駅に着く。

車窓から見た様子だと、雨は降っていない。


やはり晴れ女だ。

そうだ、本屋へ寄ろう。

私はそう思い、15分の道のりを、傘無しで歩くことにした。

 

 

外へ出ると小雨が降っている。

だが小雨というのは、私の中では雨の内に入らない。(だから当然私の概念上の晴れ率が上がる)

これは大丈夫だ、と歩き出す。

 

しかしどうだ、微かにではあるが確かに、少しずつ雨の量が増えていくではないか。

顔と腕しか外に出ていない肌にも徐々に水滴が感じられ、おやっと思うがまだ動じない。

 

なぜなら私は晴れ女だからだ。

雨季の先月一ヶ月の旅行中、雨が降ったのはたったの二度切りだったではないか。(それもたった束の間)

朝から晩まで降水確率100パーセントの中、晴れ間さえ見える空の下で動物園に行ったこともあったではないか。

そうだ、恐れることはない、私は晴れ女なのである。

 

 

しかしながら私の自信がどんどん漲っていくのと張り合うかのように、雨はどんどん大降りになっていく。

 

 

 

(自信過剰もよくないかな)

 


という思いが増すのに伴い、私の歩幅も大きくなっていく。自然というものは全く薄情だ。

 

私は走った。

灯りの少ない、雨宿りの屋根などない、まっすぐな一本道を、ただひたすらに走った。向かいからくる車のライトはこちらに一瞥を投げるも、皆一様に、無情に通り過ぎて行く。

 

たった1.5キロメートルの道のりが永遠に思える。

 

 

走れ、走れメロス

そうだ、メロスもこんな気持ちだったに違いない。

走れ、走るんだ。

 

 

 

 

そうして私は、恐らく記憶の上では小学生ぶりに、全身に大雨を浴びながら、目的の本屋へと辿り着いたのである。

 

 

 

 


と、併設しているカフェで休み休み書いている間に服も乾いた。さて、本を見に行こう。