マスクが必須になって、皮膚過敏?感覚過敏?の人が話題になったことがあった。
それまでそんな症状があるなんて知らなかったし、私みたいなのは多いだろうから当人たちはとても大変な思いをしていたんだろうな、と思う。
なんでも病名を付けるから病気になるんだ、と言っていた人がいた。
病名があると凄く楽だ。病名があれば治療法も出てくる。
それの何がいけないんだろう。
思考や信念の違いは、結局、巡り巡って争いに繋がる。
違くていいじゃない。
困っている人には救いの手を、迷っている人には支えの言葉を、狂っている人には安全な網を、苦しんでいる人には癒しの場を、相手は鏡なんだ。そう思わないといけない。自分の分身だと。
本当の本当に、命の危機に陥った時だけ、自分を守ればいい。相手を蹴落とせばいい。
私は、他人の言動に対してとても敏感で、時折本物の針のように、突き刺さることがある。時折じゃない、常にだ。毎日そうだ。
相手が悪い人でないとわかっていても、小さな針がチクチクと刺さる。思い込みだとわかっていても、どうにもならない。
その分、とても優しい人に出会うと、体の芯から温まって、指の先まで嬉しくなる。嬉しくて胸が苦しくなって、涙が出る。世の中の色んな矛盾のことを考える。すべてがこんな人で埋め尽くされていたら、と思う。けれどきっとそんな人たちの間でも争いは起こるんだろうと思う。
最近はずっと、争いのことについてばかり考えてしまう。命に関わる争いだけの話ではない。むしろそういうものはすべて、根っこを見れば日常の小さな摩擦から起こっているんだ。なにもいきなり「戦争だ!人を殺せ!」と始まる訳じゃない。
だから日々の小さなやり取りに過敏になっているのかもしれない。あぁここからすべての争いが起こるんだ、これが地球の裏側の紛争に繋がっているんだ、と本気で思う。
だからできるだけ、優しくありたい。
決して出来た人間ではない。
過去に人を故意に傷付けたこともある。
それをずっと悔やんでいる。
時は戻らないから、ずっと悔やんでいる。
あの時の言動が、いつかの争いに繋がっているんだ。自分に全く関係ないと思うようなところで。
だから、償いの思いも含めて、私は優しくありたい。
赤の他人だって、もう二度と会わない相手だって、その時の自分にできる限りの心を込めて、行動したいと思う。
『僕たちは世界を変えることができない。』のように、というかそこまで立派でもないんだから、勿論わたしは世界を変えることができない。
でもできるかもしれない。
可能性で言えば0.0000…1パーセント、というか完全にゼロパーセントだ。
でも、できるかもしれない。
だから私は、優しさにこだわって生きていく。
この先、何があるかわからないけど。
心がポッキリ折れるかもしれないし、冷酷になるかもしれない、
でもなんでもいいんだ、私は今、怒っているんだ。
怒りはいい。
生きるエネルギーになる。